第六話「終点」?
電車が揺れて、ハルトは冷たい窓にこめかみを預けた。トンネルの灯りが流れていく。十二時間の待ち時間、面接、四問目……頭は空っぽで、濡れた上着みたいに重かった。
(終点だ。少しくらい、目を閉じてもいい)
彼は目を閉じた。
夢の中は、田舎町の古いアパートだった。冬で、暖房はほとんど効いていない。枕の上、すぐ頭の横で、トラ柄の猫が丸くなっている。
「チャタ、どけよ……」と、幼いハルトがつぶやく。
チャタはどかない。小さなエンジンみたいに大きく喉を鳴らして、マフラーのように頭に巻きつき、ざらざらの舌でつむじを舐めはじめた。
夢が飛ぶ。古いモニター、唸るパソコン、画面は十フレーム。ハルトはマウスを握りしめる。最終ラウンドだ。
「またゲームか!」廊下から父の声がした。「宿題は誰がやるんだ?」
「あと一戦だけ……」
「いつも『あと一戦』だろ!」
台所で母がため息をつく。父は、ゲームなんて電気代の無駄だとぼやく。それでもチャタだけは、膝の上で温かく静かに寝ていた。勝っても負けても、気にしないのはチャタだけだった。
(チャタだけは、どうでもよかったんだ)
「お客さん。終点ですよ」
目を開けると、制帽をかぶった年配の駅員が立っていた。
「あ……すみません」
「いえいえ」駅員はうなずいた。「みんな寝ちゃうんですよ。おやすみなさい」
ハルトは電車を降り、肩が鳴るほど伸びをして地上に出た。家までは歩いて十五分。夜の空気は、雨と、どこかの窓から漂う焼きそばの匂いがした。
(履歴書は書いた。電話番号も残した。あとは、俺にはどうにもならない)
部屋は狭い。ワンルームに、床の布団と低いテーブル、それにノートパソコン。それ以上は要らなかった。
靴を脱いで冷蔵庫を開ける。帰りにコンビニで何か買ってもよかったが、今日はそんな気分じゃなかった。昨日の残りのご飯、卵、少しのネギ。もう遅いから、軽い夕食でいい。
料理は好きじゃない。でも、嫌いでもない。一人暮らしが長い人間ができる程度に、できるだけだ。
フライパンで卵が音を立てるあいだ、考えは勝手にシフトのことへ戻っていった。クローク、コート、知らない人の香水の匂い。どう始めたのか、前はどうで、今はどうなのか。
それから、人事のあの二人のこと。
(たぶん、あの二人にきつく当たりすぎたな)
卵を返す。
(まあ、言いすぎた。たぶん俺が悪かった。でも、今さら何も変わらない)
食べ終えると、すぐに皿とフライパンを洗い、テーブルを拭いた。毛皮のコートがかかったハンガーを運び慣れた筋張った腕は、いつも通り落ち着いて動いた。
布団に腰を下ろし、ニュースを開く。
ブーッ。
通知。もう一つ。そして着信。
「影山さんですか? 派遣会社の者です。遅くにすみません! 急なシフトで、今夜なんです。都心のイベントで三時間、時給も上乗せです。終電に間に合わなければ、タクシー代は主催者が出します。お願いできませんか?」
ハルトはメッセージの金額を見た。悪くない。
(また? 嘘だろ)
次のシフトは三日後。食べるものはまだある。余分な金は、余分にはならない。明日は夜まで寝ていられる。
「……分かりました。行きます」
住所は歌舞伎町だった。高層ビルの上層階にある「NEO TOKYO」。ネオン街を見下ろす、看板もポスターもない内輪のパーティーだ。
通用口はビルの横、目立たない灰色のドアだった。ハルトはインターホンを押した。
「派遣のスタッフさんですか?」ドアの向こうで女性の声がした。「少々お待ちください、主催の者です。今ご案内しますね……」
ドアが開く。
「こんばんは、あなたが……」
言葉が喉で止まった。
そこにいたのは佐倉ミオだった。きっちりまとめた髪に、手にはタブレット、胸には「主催」の名札。その肩の後ろから、ユイが顔をのぞかせた。
「……あなた!?」
ハルトは一瞬固まった。それから、口の端がわずかに上がった。
「わあ。すごい偶然ですね」
「待って」ユイがまばたきして、ミオを見た。「この人? あの人?」
ミオはゆっくりタブレットを下ろした。
「スタッフは派遣会社に頼んだの」と、彼女は小さく言った。「社長に今夜を任されて、契約も私がした……でも、名簿までは見ていなかった」
彼女はハルトを見つめた。名前しか書いていない履歴書。十二時間の待ち時間。四問目。その男が今、制服姿で、肩にバッグをかけて通用口に立っている。
ハルトは軽く頭を下げた。
「影山ハルト、クローク担当です。どこに立てばいいですか、佐倉さん?」
(つづく)




