十フレーム
10月13日(火) 20:31
黒金 本社 12F 人事部
ドアは静かに閉まった。音もなく。
ユイは三秒ほど、それを見つめていた。それから振り返った。
「ミオさん、どうしてですか」
「何が?」
「どうして、あんな……」ユイは言葉を探した。「四問目。今日、誰にも聞かなかったのに。あの人にだけ。いい人だったじゃないですか。今日一番でしたよ! 私たち、ちゃんと見てたのに。それなのに帰っちゃって、それで……それで……」
言葉が途切れた。最後の「それで」で、声が揺れた。
(かわいそう、って思ってる)ユイは気づいた。(なんで、かわいそうなんだろう)
ミオは用紙を重ね、端を揃えた。
「あなたはまだ若いのよ、ユイ」
「それ、答えになってません」
「わかってる」ミオは顔を上げなかった。「だから何も言わない。自分で、わかるようになるわ」
ユイは立ち尽くした。それから机の上の彼の用紙、名前しか書かれていないあの一枚をつかんで、部屋を飛び出した。
――――
ドアを閉める直前、ハルトはやっぱり振り返った。ほんの少し、こっそりと、肩越しに。ユイは見ていなかった。自分のペンを見ていたから。
でも、ミオは見ていた。
彼はユイを見た。そして、笑った。かすかに。
それから、ドアが閉まった。
――――
エレベーター。十二階分、下へ。
ハルトは数字を眺めていた。
(12。11。10)
(まあ、いい)
扉が開く。ロビー、警備員、ガラスの扉。夜の東京。
廊下で座っている間に、雨が降ったらしい。アスファルトが光っている。濡れた石の匂いと、近くのコンビニから漂う甘い何か。
深く、息を吸った。
(……よく寝た)
思わず笑いそうになった。列に十二時間。面接に三十分。なのに、まるで休んできたみたいな気分だった。
ポケットに手を入れる。駅まで十分。
スティックを一本取り出した。タバコじゃない。茶葉と、乾いた薔薇の花びらのハーブスティック。差し込んで、ボタンを押す。デバイスが指の中で短く震えるのを待つ。
一口。ふわりと薔薇の香り。白い蒸気は、湿った空気の中ですぐに消えた。
(タバコですらない。俺が本物のプレイヤーじゃないのと同じだ)
(まあ、いい)
――――
(そもそも)と彼は思った。(なんで行ったんだろうな)
(冗談で。半分)
(じゃあ、もう半分は?)
――――
十四歳だった。
学校。放課後は音楽教室。ピアノと声楽、クラシックだけ。滝廉太郎、山田耕筰、暗くなるまで音階。
母さんは、耳がいいと言った。先生は、声がいいと言った。
でも彼が考えていたのは、早く家に帰ることだけだった。
家に入ると、リュックを壁に投げつけた。靴もろくに脱がずに、まっすぐパソコンへ。
パソコンは古かった。とても古かった。メモリ二ギガ。グラフィックボードと呼ぶのも恥ずかしいグラフィックボード。ファンは離陸する飛行機みたいに唸っていた。
それでも、座った。毎日。
食べなくてもよかった。飲まなくてもよかった。宿題を忘れてもよかった。でも、ゲームだけは一度も忘れなかった。
――――
両親も、ゲームをしていた。昔は。
ハルトはぼんやりと覚えている。壁の向こうで、マウスのクリック音が二つ同時に響いていた夜。母さんと父さんが並んで、それぞれのモニターの前で、仕事みたいに小声で話していた。
オンラインゲーム。巨大なファンタジーの世界。二人はそこで強かった。本当に。
ある日、母さんは自分のアカウントを売った。その金額は、当時の彼には途方もなく思えた。
「それって……仕事?」と、あのとき聞いた。
「趣味よ」と母さんは答えた。「たまたま売れた趣味」
彼は覚えていた。でも、自分なりに聞いていた。
(じゃあ、これで食っていけるんだ)
――――
お金はなかった。
「バイトでもしなさい」と大人たちは言った。「チラシ配りとか」
「どこで?」
「まあ……どこかで」
誰も、どこでとは言わなかった。誰も、どうやってとは教えてくれなかった。行ったのに。本当に行ったのに。誰かが手を引いて、見せてくれさえすれば。
でも、誰も見せてくれなかった。
――――
その年の誕生日、隣の家の人が封筒をくれた。
親戚ではない。ただ近所に住んでいて、母さんとずっと仲が良かったから、みんな「おばさん」と呼んでいた。
「好きなものを買いなさい」と、彼女は言った。
封筒の中には、五千円。
T.I.M.B.E.R.S.は、当時ちょうど五千円だった。
ダウンロードの間、指が震えていたのを覚えている。夜中に、進行バーを見つめていたこと。(これで、始まる)と思ったこと。
ゲームが起動した。
十フレーム。
キャラクターがスライドショーみたいに跳ねる。撃つ、止まる、撃つ。どこから撃たれたのか見える前に、死んでいた。
歯を食いしばった。そして、やり続けた。
毎日。ラグも、フリーズも、強制終了も越えて。夜、布団の中で、スマホで大会の録画を見た。プロたちは、まるで自分たちだけ時間がゆっくり流れているみたいに動いていた。
(俺も、ああなりたい)
――――
配信もやってみた。一度だけ。
パソコンは、ゲームと配信を同時には耐えられなかった。画面はぐちゃぐちゃになった。視聴者は二人。それから、ゼロ。
「母さん」と、夕飯のとき言った。「その……ちゃんとしたパソコン、だめかな」
両親は顔を見合わせた。
「今は無理なの、ハルト。ごめんね」
彼はうなずいた。
(まあ、いい)
それが、初めてだった。心の中で、小さく。自分でも気づかないうちに。
――――
夢は、一日で死んだわけじゃない。少しずつ、滲んでいった。雨に打たれた水彩みたいに。
音楽教室、学校、友達、他のゲーム。別のゲームを始めた。ただ、楽しむために。T.I.M.B.E.R.S.の最初の夜みたいな火は、もうなかった。
そのうち、夢どころじゃなくなった。お金が要って、仕事を見つけた。チラシ配りじゃない。クロークだ。コートで人を読む、あの場所。
――――
(で、今は上位五千。元、上位五千か)
信号で立ち止まる。赤。
(結局、プロにはなれなかった)
(でも、たぶんずっと、プロの隣に立つ練習をしてたんだな)
最後の一口を吸って、スティックを抜く。信号脇のゴミ箱に落とした。
青。歩き出す。
前方に、駅の入口が光っていた。
――――
20:44
渋谷駅 3番出口
ハルトは、最初の一段を降りた。
20:44
黒金 本社 1F
ガラスの扉が勢いよく開いた。ユイが通りへ飛び出す。息を切らして、用紙を握りしめたまま。
濡れたアスファルト。街灯の光。傘を差した人々。
白い髪は、どこにもなかった。




