第四話 四問目
小さな部屋だった。白い机。その向こうに椅子が二つ、向かいに一つ。窓が、手のひらひとつ分だけ開いている。
外から夜の空気が流れ込んでくる。冷たくはない。海から吹く風のように、ただ爽やかだった。エアコンは切られていて、誰もそれに気づいていなかった。
ユイは立っていた。ミオは少し離れた隣の机で、書類に向かっている。
「こんばんは、影山さん」ユイが軽く頭を下げた。
「こんばんは」
ハルトも同じように軽く頭を下げた。そして、座らなかった。
代わりに一歩横へずれて、肩を壁に預けた。斜めに、落ち着いて。腕を胸の前で組む。
(椅子はある。でも、勧められてはいない)
――――
昔は、すぐに座っていた。
最初の頃の仕事。アプリもない、評価もない、求人の貼り紙だけ。「来てくれたら、最後に払うから」。最後に、払われなかった。「ちょっと遅れる、来週な」。来週、その番号はもうつながらなかった。
倉庫で十四時間働いたあと、「今日のは研修だったから」と言われたこともある。
(あの頃は、言われた場所に座った。うなずいていた)
(もう、座らない)
――――
ユイは瞬きをした。椅子を見る。彼を見る。また椅子を見る。
(この人……待ってる?)
隣の机で、ミオが書類から目を上げた。片方の眉が、かすかに持ち上がる。
「ど……どうぞ、お掛けください」ユイが言った。
「ありがとうございます」
ハルトは座った。浅くではなく、背もたれにゆったりと体を預けて。両手を膝に置く。
(よし。始めるか)
ユイが用紙を開いた。
「では影山さん、まずは……」
「先に、いいですか」彼は穏やかに言った。
ユイはペンを持ったまま固まった。
「……はい?」
「僕に、まず何を求めていますか」
沈黙。
(一日中、誰もそんなこと聞かなかった)ユイは思った。(百九十二人、一人も)
口を開いて、閉じる。視線が隣の机へ流れた。
「ミオさん……ちょっと、いいですか」
ミオはもう立ち上がっていた。
「ええ」
近づいてきて、軽く頭を下げる。
「改めまして、こんばんは、影山さん。佐倉です」
「こんばんは」
ミオはユイの隣に座った。予想していなかった一手を見るような目で、彼をじっと見る。
「チームを繋ぎとめられる人が必要なんです」と彼女は言った。「コーチでも、アナリストでもない。人に責任を持つ人」
「わかりました」
(つまり、現場と同じだ。ただ、シフトが一シーズン分あるだけで)
――――
「一問目です」ミオが言った。「人をまとめた経験を教えてください」
「イベントです。たまに現場のリーダーを任されました。十人から十五人くらい。シフトは十二時間以上」
「どうやってまとめましたか」
「十二時間ちゃんと働いてもらうには、ちゃんと休ませないといけない。シフトは先に割っておきます。誰がいつ入口、誰がクローク、誰が休憩か。休憩は疲れる前に入れる。疲れてからじゃなくて。疲れた人はミスをする。一人のミスで周りが苛立って、揉めて、全員の動きが悪くなる」
ユイは書いていた。速く。
「できない人がいたら?」
「まず、なぜかを見ます。たいてい、合っていない場所にいる。静かな人を入口には立たせない。おしゃべりな人を倉庫には置かない。場所を変えれば、できるようになる」
(簡単すぎる話に聞こえる。でも、本当のことだ)
ミオがうなずいた。
――――
「二問目」ミオが指を組んだ。「あなたのチームは五人、全員十六歳。公式戦の最中に、一人が誤って味方を撃ち倒す。ラウンドを落とす。ボイスチャットはパニックです。どうしますか」
(知ってる。何千回も見た。向こう側から)
「試合中は、僕はチャットに入りません。そこで喋るのはキャプテンです。僕の仕事は、もしあればタイムアウト。三十秒、黙る時間。反省じゃない。ただの静けさ」
「試合のあとは?」
「『誰のせいだ』とは聞きません。味方を撃った本人に聞きます。『何が見えてた?』。だいたい、他の誰にも見えていなかったものが見えてる。言う暇がなかっただけ。それならあいつの問題じゃない。どう知らせるか、決めていなかった俺たちの問題です。それなら、直せる」
ミオはゆっくりとペンを置いた。
(面接の答えじゃない)彼女は思った。(その場にいた人間の答えだ)
――――
三問目は、あの質問だった。深夜三時の配信、視聴者四万人、三時二十分のスポンサーの電話、試合に出ないと言うキャプテン。
ハルトは三秒ほど考えた。
「スポンサーには、僕から先に電話します。かかってくるのを待たずに。状況は把握している、朝には声明を出す、と。それで落ち着きます。向こうが欲しいのは、全部がうまくいっていることじゃない。誰かが状況を握っていることです」
「選手には個別で送ります。チャットじゃなくて。『消せ』じゃなく、『大丈夫か?』。夜中の三時に配信で叫んでるなら、そいつはしんどいんです。怒りは、その次」
「キャプテンには、メッセージじゃなく電話します。明日はあいつのために出るんじゃない、残りの三人のために出るんだ、と。話は試合のあと、夜に。僕も一緒に」
「それから朝、試合の前に、二人を同じ部屋に十分だけ座らせる。僕抜きで。だいたい、それで足ります」
ユイは書くのをやめていた。ただ、見ていた。
ミオは何も言わなかった。今日、三問目までたどり着いた四人を思い出していた。誰一人、「大丈夫か」から始めた者はいなかった。
――――
ミオはユイと目を合わせた。かすかにうなずく。
「四問目です」と彼女は言った。「今日はまだ、誰にもしていない質問です」
ハルトは、わずかに背筋を伸ばした。
「あなたは、やっていないことで責められます。公の場で。チームに隠れて八百長をしていた、と。証拠はない。でも信じてもらえない。チームにも、上層部にも。どうしますか」
ハルトは黙った。
(似たような状況……現場で……いや。遅刻とか、割れたグラスとか。違う)
(違う)
秒が伸びていく。ユイがそっとミオを見た。ミオは彼だけを見ていた。
窓から涼しい風が入る。ハルトは窓の隙間を見つめていた。答えがそこにあるかのように。
「……たぶん、辞めます」やがて彼は言った。
ミオがわずかに目を細めた。
「辞める? 証明しようとはしない?」
「人は、自分の言ったことを間違えることがあります。カッとなって、考えずに。本人がそれを信じてしまったら、どんな説明も届かない。探すのは真実じゃなくて、裏付けです。そこに立って証明し続けることはできる。でもそうなったら、もう仕事はしていない。言い訳をしているだけです」
間を置いて。
「向こうが正しいって意味じゃない。向こうはもう選んだ、ってだけです。自分の選んだことの結果にぶつかったとき、もう説明はいらなくなる」
ユイが印をつけた。ミオも。期待していた答えではなかった。でも、それは答えだった。
ハルトは手のひらを膝についた。
「もし、そういう状況がここにあるなら……」彼は静かに言った。「残念ですが、一緒には働きたくありません」
立ち上がる。
「お時間をいただき、ありがとうございました。失礼します」
軽く頭を下げて、ドアのほうへ向き直った。
――――
「影山さん!」
ユイの声。小さいけれど、速かった。
彼は止まった。手はもう、ドアノブにかかっていた。
「あの……」ユイはペンを、指が白くなるほど握りしめていた。「こういうこと、前にもあったんですか」
ハルトは振り返らなかった。
間は短かった。わかるのに、ちょうど足りるだけの長さ。
ドアが静かに閉まった。
――――
一分ほど、部屋は静かだった。風が用紙の角を揺らした。
ミオがユイのほうを向いた。
「どうして、あの質問をしたの」
ユイはドアを見ていた。
「だって……」言葉に詰まる。「必要なのは、何をすべきか知ってる人だけじゃないですよね。ああいうことを乗り越えて、それでも残った人です」
ミオは長いこと黙っていた。
それから、彼の用紙を手に取った。履歴書に、名前しか書かれていなかったあの用紙。
「お礼」の山には置かなかった。「再連絡」の山にも置かなかった。
別に置いた。一番上に。
そして隅に、赤いペンで書いた。
No.1
「でも、断ったんですよね」ユイが小さく言った。
ミオはファイルを閉じた。
「断ったわ。状況を。私たちを、じゃない」




