第三話 名前
夜は、濡れたアスファルトの匂いがした。
ハルトはポケットに手を入れたまま、駅へ向かった。斜めに割れた画面に住所が光る。六本木、最上階、貸し切りのホール。
(十五人。三時間。四千五百円。クロークにしては、条件が良すぎる)
(つまり、客がただ者じゃない。まあ、いい。コートの掛け方は誰でも同じだ)
通用口で、受付の女性が名札を差し出した。目も上げずに。
「非公開のレセプションです。商談関係だとか。あなたはクローク担当。撮影禁止。自分から話しかけないこと」
「わかりました」
(自分からは、話しかけない。二番目なら、いい)
カウンター。木製のハンガー。ずっしりした真鍮の番号札。
最初に来たのは、五十歳ほどの男だった。濃紺のカシミヤのコートを、手伝いを待たずに自分で脱ぎ、裏地を内側にして畳む。
(誰も手伝ってくれないことに慣れている。あるいは、正しく扱われると思っていない)
襟元の裏地に、生地と同じ色の糸で、小さな刺繍があった。何かのエンブレム。ほとんど見えない。
「きれいな刺繍ですね」ハルトは小さく言った。「ほとんど見えませんけど」
男は一瞬止まり、初めて彼を見た。
「そういう作りなんだ。わかる者には、わかる」
(わかる者には。俺にはわからない。まあ、いい)
――――
一時間後、壁の向こうがざわめき始めた。グラスが鳴り、笑い声が大きく、単純になっていく。
ハルトは高いスツールに座っていた。スマホは画面を伏せたまま。ネットは電車の中でもう飽きた。
(あと二時間、何もしない。これも仕事だ)
ドアが開いた。刺繍の男だった。顔を赤くして、グラスを持っている。
「おい、君。退屈か?」
「仕事中です」
「同じことだ」男はベンチにどさりと腰を下ろした。一日中、誰にも調子を聞かれなかった人間の座り方だった。「なあ、クロークの君。部下はいるか?」
「たまに。現場のリーダーを任されたときは」
「喧嘩するか?」
「しょっちゅうです」
「何で?」
「うまくいかなかったとき、誰のせいにされるかで」
男は長いこと、グラスの中を見つめていた。
「……五人のガキがな」と、男はつぶやいた。「五人なのに、二十人分うるさい」
(ガキ? 息子か。それとも、どこかの学校か)
男は、来たときよりゆっくり戻っていった。
――――
二人目は、明るい色のジャケットの女性だった。コートのポケットからスマホを取りに来て、そのまま足を止めた。
手首に、細くて高そうな腕時計。留め具のそばだけ、ベルトが擦り切れている。
(毎日つけている。何年も。替えていない)
「贈り物ですか?」と、彼は時計に目をやった。
「……最初に、私たちを信じてくれた人から。あの頃は三人で、地下室にいたの」
「今は?」
「今は四十人。地下室を覚えている人は、誰もいない」彼女は疲れたように笑った。「お金は来た。でも、人は変わらない。一番の人材は雇える。でも、お互いの話を聞くようには雇えないのよ」
(どこかの会社か。スタートアップ。ここの人たちは、みんな同じ話をしている)
――――
三人目と四人目は、言い争いながら二人で出てきた。ハルトは、片方が思い出すより先にマフラーを差し出した。
「なんでわかった?」
「来たとき、首を触ってました。あそこ、隙間風が入るので」
もう一人が笑って、相手の肩を叩いた。
「ほら! これだよ、俺が言ってるのは! あいつが全部台無しにする前に、寒がってるのに気づける人間が要るんだ。なのにお前は表ばっかり持ってくる」
「表が給料を払ってるんだ」
「表はマフラーに気づかない!」
(どっちも正しい。だから揉める。そもそも、この人たちは何者なんだ?)
ハルトは黙って番号札を渡した。
――――
五人目は、シフトの終わり近くに来た。
この男は酔っていなかった。酔った人間は肩でドアを開ける。この男は手のひらで開けた。こめかみに白髪。バッジのない、シンプルな黒のジャケット。右の袖に擦れた跡があった。何千時間もマウスを机の上で動かしたような跡。
(ゲームをやってる? この歳で? 変な人だ)
「立たなくていい」男はそう言って、カウンター脇の段差にそのまま腰を下ろした。「一晩中、クロークの話を聞かされたよ。刺繍に気づいた、と言う奴がいる。マフラーを渡してくれた、と言う奴もいる。三人も、君に人生の愚痴をこぼしに来たそうだな」
「退屈なだけですよ」
「違う。話す相手がいないんだ。上には、誰もいない。それは別物だ」
沈黙。壁の向こうで誰かがグラスを割り、会場中が笑った。
「もし」と男は言った。「君の部下たちが、一番大事な日の直前に、お互いを信用しなくなったら。どうする?」
(クロークで聞く質問じゃない。まあ、いい)
「信頼の話は、しません。一人ひとりに、別の誰かが自分の仕事をしないと終わらない仕事を渡します。理由は説明しません」
「それで、失敗したら?」
「一緒に失敗するだけです。バラバラに勝つよりは、ましです」
男は長いこと彼を見つめていた。それから立ち上がった。
「番号札を」
シンプルなグレーのコート。内ポケットに何か硬いもの。古いヘッドホンだった。かつて大会を回っていた者のように、コードがきちんと巻かれている。
男はコートを羽織り、ドアノブに手をかけ、振り返りもせず、ついでのように言った。
「そういえば。名前は?」
「……影山です。ハルト」
「影山」男はその言葉を味わうように繰り返した。「いいな」
自分の名前は、言わなかった。ドアが閉まる。
ハルトは、空になったハンガーを見つめていた。
(なんで俺の名前を? クロークなんて、誰も覚えない)
(……それとも、覚えるのか?)
唇の端が、かすかに震えて、持ち上がった。笑顔というより、ニヤリ、だった。
(まあ、いい)
シフトはちょうど三時間で終わった。四千五百円。終電。
アラームは六時半。メール:「面接は八時より、先着順」
ハルトは目を閉じた。
(黒金か。どんな人たちがいるんだろうな)
――――
10月13日(火) 07:00
黒金 本社 12F 人事部
照明が、一列ずつ点いていく。
採用担当の主任、佐倉ミオは、もう窓際でコーヒーを手に立っていた。座っている暇はない。
「ユイ。何人?」
後輩の小野寺ユイが、判決文でも読むような顔でタブレットをスクロールする。
「応募二百十四件。来場確認、百九十八人です」
「一枠に」
「一枠に、です。ミオさん」
ミオはカップを置いた。
「分けるわよ。人をまとめた経験がある人と、ない人。履歴書に『T.I.M.B.E.R.S.が好きで、アイノリの試合は全部見てます』しか書いてない人は、別の山に」
ユイはスクロールした。さらに下へ。さらに下へ。
「これ……五十人くらいいます」
「ファンが五十人。結構ね」ミオは瞬きもしない。「その人たちには質問一つ。お礼を言って、三分で」
「残りは?」
「質問三つ。一問目では落ちない。落ちるのは二問目。三問目まで来たら、私を呼んで」
ユイが用紙を印刷する。前回の残り。その前の回の残りも。
「ええ。今年四回目の募集よ」ユイの視線に気づいて、ミオが言った。「選手はリーグ最強。でも、あの子たちをまとめられる人がいない。新しいマネージャーはみんな、夢のクラブに来たと思う。二か月後には辞表を書いてる」
「どうしてですか?」
「十六歳の天才五人は、オフィスじゃないから。百万人が見てる幼稚園よ」
――――
07:58
ガラス扉の向こうが、人で暗くなっていた。
07:59
誰かが顔をガラスに押しつけた。ユイが一歩下がる。
08:00
扉が開いた。
いや、開けられた。三十人ほどが、一斉に、肩で。
「俺が一番だ!」
「六時から並んでたんだぞ!」
「アイノリいる!? アイノリ来る!?」
「せめてサインだけでも……」
「ストップ」
ミオは大きな声を出したわけではない。それなのに、なぜか群衆は止まった。
「番号札は小野寺から。一人ずつ。管理職の経験がある人は右、ない人は左。サイン目当ての人は出口へ。アイノリは今日、寝てます」
五人が、しょんぼりとすぐに帰っていった。
ユイがミオに身を寄せる。
「どうやったら、あんなふうに……」
「採用十二年。そのうち覚えるわ。それか辞めるか」
ユイは番号札を配っていく。百八十七、百八十八……。最後に、押し合いもせず、静かに一人の青年が入ってきた。白い髪。しわの寄った上着。ひびの入ったスマホ。百九十三番を受け取り、「ありがとうございます」と言って、廊下の一番奥の隅に座った。
ユイは、一秒後には彼のことを忘れていた。
――――
11:40
ファンたちは、まとめて帰されていった。質問は一つだけ。「人をまとめた経験と、その結果を教えてください」
ほとんどがゲームのクランの話をした。一人は、リフォーム中に弟を指揮した話をした。
ユイは完全な無表情でそれを用紙に書き、それから三分間、壁を見つめていた。
「ユイ」
「大丈夫です」
「『弟』って書くの、もう二回目よ」
――――
14:15
経験者の面接は、もっと面白く、もっと重かった。
四十二歳。営業部を十五年率いてきた男。一問目は完璧だった。数字、実例、成長率。
二問目は、ミオが出した。
「深夜三時。チームのエース選手が、配信中、視聴者四万人の前で『キャプテンは無能』と書き込みました。最初に何をしますか?」
「選手に個別で連絡します。注意します。繰り返すなら、契約に基づいて罰金を」
「選手は同じ配信で返します。『マネージャーに口を塞がれた』。十分後にはトレンド入り。三時二十分、スポンサーから電話。三時二十五分、キャプテンが『明日の試合には出ない』と連絡してきました。どうしますか?」
男は口を開き、閉じた。
「……会議を、招集します」
「深夜三時二十五分に。十六歳たちと」
「……朝に」
「試合は十二時です」
沈黙。
「ありがとうございました」とミオは言った。「結果はご連絡します」
ユイがバツをつける。三十いくつ目かのバツだった。
「いい人材なのに」扉が閉まると、ユイが小さく言った。
「優秀よ。でも営業の相手はお金が欲しいの。あの子たちは、見てほしいの。それがわからなきゃ、経験は役に立たない」
――――
17:30
一日で、三問目までたどり着いたのは四人。
ミオは四人全員の面接に出た。四回とも、黙って戻ってきて、コーヒーを注ぎ足した。
ユイの声は、もう声ではなく囁きだった。
「まだ、かかりますか……?」
ミオがリストを見る。
「一人。百九十三番」
――――
19:48
廊下には誰もいなくなっていた。清掃員がモップを持って二度、前を通り過ぎる。
奥の隅に、まだあの白い髪の青年が座っていた。スマホはとっくに消えている。頭が肩に傾き、腕を胸の前で組み、まつげが伏せられていた。
眠っていた。
「八時からずっといるんです」ユイが小声で言った。「とっくに帰ったと思ってました」
「履歴書は?」
ユイはファイルを開いて、言葉に詰まった。
「ここ……名前だけです」
「名前だけ?」
「はい。他には何も。応募はおとといの夜。自動配信で招待されてます」
ミオはガラス越しに、眠る青年を見ていた。眠っていても、彼は扉と、一日中ユイが一人で番号札を配っていた空の机が見える位置に座っていた。
(あの子、一度も交代してもらえなかった)ミオはふと思った。(彼は、それが見える場所に座った。偶然?)
「十二時間」ミオは声に出した。「帰らなかったのね」
――――
19:52
ユイはタブレットを持って廊下に出て、起こすべきか迷って立ち止まった。
「百九十三番……影山さん?」
まつげが揺れた。青年はすっと目を開けた。寝ぼけた様子もなく、まるで眠っていなかったかのように。立ち上がり、首を回す。
「はい」
彼はユイの横を通り過ぎた。なぜかユイは気づいた。彼が、ドアを押さえてくれていたことに。彼女のために。




