第十二話 番号札
11:20
スマホの箱は、リュックに入らなかった。ハルトはそれを、ケーキみたいに手に持って歩いた。
店のなかで、五分ほど、ただ新しいスマホを握って画面を指でなぞっていた。なめらかだった。ひびはひとつもない。それなのに指は、もうどこにもない蜘蛛の巣を探していた。
封筒は薄くなった。ずいぶん薄くなった。
(まあ)と彼は思った。(これが万が一の日だったなら、せめて元を取らないと)
チャットを移して、ナカマにログインして、Hollow Crownをいちばん上にピン留めする。交差点で信号を待っていると、スマホが震えた。
エルマ「ほんとに見てくれるの?? 仕事中に??」
ハルト「ほんとに」
エルマ「こき使われたらどうすんの?」
ハルトは信号を見上げた。
「コートのあいだから見る」
11:41
ホテルの通用口。警備員は顔も上げずに、名簿の名前と彼を照らし合わせた。廊下には塩素と厨房のにおいがして、壁の向こうではもうグラスが鳴っていた。
毎回、同じ気持ちになる。一度も見たことのないマップに入る前みたいな。今日は誰が隣にいるんだろう。客は何人だろう。早めに上がらせてもらえるのか、それとも最後のコートまで立たされるのか。
彼はクロークのドアを押した。
11:48
宴会場。客は二百人以上。カウンターは三つ。クローク係も三人。全員、ハルトが生まれて初めて会う人間だった。
「あなたもアプリから?」前髪の短い女の子が、番号札を並べながら聞いた。
「うん。ハルト」
「佐藤です。で、こっちが健二さん。たぶんこの中でいちばんベテラン」
四十歳くらいの男が、ハンガーから目を離さずにうなずいた。
「このホテルで四十二回目のシフトだ。ハンガー、いまだに替えてねえ」
ハルトは笑った。新しい人、新しい話。誰と八時間並んで立つことになるのか、毎回わからない。明日になれば、この中の誰も隣にはいない。だからこそ、こんなに気軽に話せるのかもしれない。
12:30
客が波のように押し寄せてきた。コート、マフラー、傘、番号札、笑顔、次の人。
番号札は、彼の指のあいだを勝手に渡っていった。イカサマ師のカードみたいに。人差し指、中指、薬指、そしてまた人差し指へ。客がまだコートを差し出している最中に、プラスチックの札はもう、番号を上にしてハルトの手のひらに乗っていた。
「それ……必要なの?」佐藤が聞いた。
「いや」とハルトは言った。「でも、このほうが速い」
嘘だった。このほうが、かっこいいだけだ。
彼はいつものように、細かいところを見ていた。高いコートに安い裏地。厳しそうなスーツの男のポケットに、子どもの手袋。
「どうやってそんなに覚えてるの?」佐藤がささやいた。
「覚えてない。見てるだけ」
14:59
宴会場の扉が、ようやく閉まった。静けさ。ハルトはスマホを取り出して、ロビーの配信を開いた。
15:00。黒金対、名前もないミックス。
15:03
一ラウンド目。
タイマー。Hollow Crownの五人がスポーンから飛び出す。いつものように、エルマが先頭。長い通路、曲がり角、お気に入りの角。
(そっちじゃない)
カチッ。一発。エルマは振り向くこともできずに倒れた。
蓮、湊。黒金は走らない。ミックスが一秒後にたどり着く場所に、ただ立っているだけだ。台本を先に読んでいたみたいに。
0対1。ヘッドホンのなかで、ラウンド終了の音が小さく鳴る。
「すみません!」
ジャケットの前を開けた男。手には番号札。
「タバコだけ、上着から出してほしいんだ。五分で戻るから」
隣には、空いているカウンターが二つある。それでも男は、まっすぐハルトのところへ来た。
ハルトは上着を見つけ、箱を取り出し、上着をハンガーに戻して、画面に目を上げた。0対2。
15:09
(ミッドが二分目に空く。毎回だ。こいつらは位置じゃなくて、タイミングで俺たちを読んでる)
それをメモに打ちこんでいると……
「すみません、コートからライター取ってもらえます? 忘れちゃって」
番号札は117番。ハルトは列を探さなかった。親指で札を弾き上げ、見ないまま受け止めて、まっすぐいちばん奥のハンガーへ向かった。
「え、全部覚えてるの?」佐藤が彼の背中を目で追った。
「カッコつけてるだけだ」と健二さんが言った。でも、彼も見ていた。
ハルトが戻る。0対4。
「どうしたの、そんな顔して」佐藤が肩越しにのぞきこんだ。「あ、それやってるの?」
「見てるだけ。俺のチーム」
「あなたの? コーチか何か?」
ハルトは一瞬、考えた。
「まだわかんない。自分が何なのか」
15:21
七ラウンド目。0対6。
颯太がスモークを投げる。この試合で初めて、ぴったりの場所に。悠真がフランクを押さえる。湊が遠距離から一人を抜く。蓮がスモークに飛びこみ、ひとりだけで出てくる。
ラウンド。
Hollow Crownのチャットに、大文字が爆発した。
ハルトは打つ。「喜ぶな。あいつら、このラウンドで誰と誰が入れ替わったか見ろ」
「すみません! タバコいいですか?」
同じジャケット。二回目。
健二さんが、振り向きもせずに言った。
「箱ごと持ってけって言ってやれ」
「前回そう言いました」
「じゃあ、もうお前の常連だな」
ハルトは吹き出しそうになった。でも、肋骨の下はずっと煮えていた。タバコを渡し、画面を見る。仲間たちが、彼なら先に読めていたはずのラウンドを落としていく。
(もし俺があいつらの後ろに立ってたら、言ってやれたのに。十秒待て。たった十秒)
15:44
13対1。
ロック「まあ。生きてはいたな」
一分後、もう一通。
「お前らのとこ、ラウンドの合間にチャットで何か打ってるやついる? うちのやつらが、最後のほうでお前らが組み直したって気づいてた」
ハルトは、その一行を長いあいだ見つめていた。
15:50
佐藤が自販機の冷たい缶コーヒーを差し出した。
「負けた?」
「負けた」
「悔しい?」
ハルトはメモを見た。一試合で、半ページ。
「いや。たぶん、逆」
15:53
「見た? あっちにどれだけ運んでったか」佐藤は、ウェイターがトレーを持って出入りする通用口のほうへあごをしゃくった。「タルトレット。キャビアの」
「俺たちの分はない」健二さんは、四十二回のシフトで何が決まりで何がおこぼれなのかを覚えきった人間の口調で言った。
「俺たちの分がないもの、多いですよね」とハルトは言った。「昼飯とか」
間。三人のクローク係が、参謀本部みたいな真剣さで顔を見合わせた。
「作戦はこう」佐藤がささやいた。「誰かが聞きに行く」
「誰か、な」健二さんが繰り返して、ハルトを見た。
「なんで俺?」
「新人だろ。新人は何言っても許される」
「全員新人じゃないですか」
「俺は違う。四十二回目だ」
反論の余地はなかった。
ハルトは通用口をノックした。白いエプロンのケータリングの女の子が顔を出した。今まさに戦場から引きはがされた、という顔だった。
「すみません」とハルトは、人生でいちばん丁寧な声で言った。「クロークから質問なんですが。もし、何か余ったら……」
最後まで言う必要はなかった。女の子は彼を見て、それから、必死に興味のないふりをしている佐藤を見て、それから、タルトレットを真正面から見つめている健二さんを見た。
「一回目の配膳のあと」と彼女は言った。「誰にも見られないように」
ドアが閉まった。
ハルトは、世界平和の交渉から帰ってきたみたいな顔でカウンターに戻った。
「で?」
「一回目の配膳のあと」
佐藤が声を出さずにこぶしを突き上げた。健二さんは黙ってうなずいた。最初からそういう計画だったみたいに。
(黒金とのスクリムはロック経由で取った)とハルトは思った。(タルトレットはエプロン経由。考えてみれば、同じ仕事だ)
16:00
ナギサは時間ぴったりにロビーを送ってきた。「こんにちは」のひとこともない。
ハルトは仲間に三行だけ打った。「二分目のミッド。エルマ、お前の角じゃない。十秒待て」
カウンターには、もうジャケットの前を開けた男が向かってきていた。
「三回目」と佐藤が小声で言った。
「数えてる」とハルトは答えた。
彼は見もせずにタバコを渡した。目は画面のなかだった。
ミッド。二分目。
エルマは壁ぎわ。出ない。きっと、キーの上で指が震えている。
三秒。五秒。
ナギサのチームの誰かが我慢できずに、先に顔を出した。
エルマが撃つ。一人。二人目が続けて飛び出してきて、エルマは振り向きざま、ろくに狙いもつけずにそいつも倒した。
「よし!」ハルトは声に出していた。
佐藤が跳び上がった。番号札を持って並んでいた男が振り返った。
ハルトは咳払いをして、何事もなかったようにコートを差し出した。
チャット「今の俺??? 俺がやったの???」
悠真「慣れるなよ」
16:20
試合は、ラウンドごとに互角に進んだ。ハルトは、仲間に聞こえているみたいに自分の唇が動いていることに気づいた。コート、番号札、画面、コート、画面。
通用口から、トレーを持った手がにゅっと出てきた。タルトレットが三つ。カウンターの数とぴったり同じ。
ハルトは画面から目を離さずに、自分の分を取った。ちょうど湊が、マップの端から端までのデュエルに勝ったところだった。
「今日いちばんのラウンドだ」とハルトは口いっぱいのまま言った。
「試合の話? キャビアの話?」佐藤が聞いた。
「まだ決めてない」
健二さんは二口で自分の分を片づけて、ハルトのスマホを見た。
「俺は二十年シフトに入ってる。普通、スマホ見てるやつは暇だから見てるんだ」
「俺は暇じゃないです」
「だろうな。お前、それを決勝戦みたいな目で見てる」
16:47
13対10。
Hollow Crownのチャットが大騒ぎになる。ナギサからは短い一行。「わかったよ。思ってたのと違った」
ハルトはスマホをポケットにしまって、十秒ほどそのまま立っていた。ただ、息をしていた。
17:00
BO2。七百位から千位のチーム。
ここでは何もかもが違った。黒金のようにミックスを読んでくるわけじゃない。でも速くて、荒っぽかった。一マップ目は9対13で落とした。
マップの合間に、ハルトはチャットに長いメッセージを打ち、すぐに半分消した。多すぎる。今あいつらに必要なのは、十個じゃなくて、ひとつの考えだ。
「あいつらは焦ってる。焦らせとけ。お前らは焦るな」
「すみません、あの……」
「タバコですね」ジャケットの男が口を開く前に、ハルトは言った。
箱はもう彼の手のなかにあった。袖から抜いたカードみたいに、二本の指のあいだでくるりと返して、前に差し出す。
男はまばたきした。それから笑った。
「俺、そんなに来てる?」
「四回目です」
「やめるよ」と男は言った。「ほんとに。月曜から」
隣のカウンターで、佐藤が袖に顔をうずめて声もなく笑っていた。
18:36
二マップ目。12対11。あと一ラウンド。
二対三。ミックスに残っているのは、体力がほとんどない蓮と、マップの反対側の颯太。
ハルトは息を止めた。
(突っこむな。颯太、引きつけろ。蓮、待て)
言えなかった。見ていることしかできなかった。
颯太がわざと騒がしく飛び出す。敵が二人、そっちへ走る。颯太が倒れる。
静寂。
三人目の敵が、爆弾を設置しに行く。背中を向けて。
蓮が出る。
一発。
13対11。BO2の結果は1対1。
ハルトはスマホを両手で握ったままカウンターに立っていて、自分の手が震えているのがわかった。健二さんが黙って、二本目の缶コーヒーを彼の前に置いた。
19:40
宴会は早めに終わった。シフト長が扉から顔を出した。
「クローク、もういいよ。上がって。残りは自分たちで取りに来るから」
佐藤がため息をついた。
「また最後の一時間、ケチられた」
「いつものことだ」と健二さんが言った。
最後の番号札がカウンターに戻ってきた。ハルトは束をまとめ、手のひらでぱちんと鳴らした。プラスチックの札は扇のように広がり、番号順にきれいにそろった。勝負のあとのトランプみたいに。
「はい、おしまい」振り向かずに彼は言った。「クローク、閉店です」
佐藤が三回、すごく小さく拍手した。健二さんが鼻を鳴らした。
「それで金がもらえたら、お前、とっくにマンション買ってるな」
「それで金がもらえたら」とハルトは言った。「ここには立ってませんよ」
軽く言ったつもりだった。なのに、胸の奥がなぜか少し痛んだ。
三人は黙って着替えた。いい感じに疲れていた。出口で、佐藤が振り返った。
「ハルト。今日、あなたのチーム勝った?」
彼は考えた。
「一回、本気で負けた。一回、本気で勝った。で、一回は引き分け」
「それっていいこと?」
「始まりだよ」
彼女は笑った。そして二人は、反対の方向へ歩いていった。たぶん、もう二度と会わない。
20:05
電車のなかで、ハルトはようやく座った。足がじんじんしていた。八時間立っていたんじゃなくて、走っていたみたいに。考えてみれば、走っていたのかもしれない。ハンガーと画面のあいだを、行ったり来たり。
彼はメモを開いた。三ページ。
いちばん下に、書いた覚えのない一行があった。
「黒金。ミッド。二分目。あいつらも読める。ただ、まだ誰も見てなかっただけだ」
ハルトは車窓に頭をもたせかけた。
八時間。コート二百着。試合が三つ。自分のものじゃないタバコの箱が四回。キャビアのタルトレットがひとつ。
人生でいちばんきつい一日だった。二つの戦場で働いて、どちらからも一歩も引けなかった。
目を閉じて、彼はふと、自分が笑っていることに気づいた。
楽しかった。
(つづく)




