第36話:「次ここのゲリラライブ会場(※心霊スポット)行こうぜ!」
第36話:「次ここのゲリラライブ会場(※心霊スポット)行こうぜ!」
八月下旬の東京。
アスファルトに照りつける太陽が、逃げ場のない熱波となってコンクリートジャングルを焼き焦がしていた。
頭上からはアブラゼミの暴力的な鳴き声が降り注ぎ、遠くの交差点にはゆらゆらと蜃気楼が浮かんでいる。外気温は三十五度を超え、大気中の湿度はサウナのようにまとわりついてくる。
望月夏帆は、黒のスポーツ用タンクトップに蛍光イエローのショートパンツという出で立ちで、炎天下の歩道を大股で歩いていた。
22.5センチのナイキ・ショックスが、溶けかけたアスファルトを力強く踏みしめる。
キュッ、ギチィッ!!
ショックスのコラムが反発音を鳴らすたび、夏帆の鍛え抜かれたふくらはぎとハムストリングスが躍動する。彼女の全身の毛穴からは滝のような汗が噴き出しており、シトラスの香水が強烈な代謝熱に乗って周囲の空気を支配していた。
「いやー、今日の東京マジでサウナ状態! 歩いてるだけで有酸素運動になって最高じゃん!」
夏帆は首に巻いたタオルで顔の汗を豪快に拭いながら、野太い声で笑った。
その右斜め後ろ十五センチの座標。
倉田涼音は、夏帆の影の中にすっぽりと収まるようにして、黒のパンプスを正確なリズムで運んでいた。
涼音は、真夏の炎天下であるにもかかわらず、黒のタイトスカートに長袖のシルクのブラウス、さらにはジャケットまで羽織った完全なスーツ姿だった。
涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
胸の奥で、心臓が不整脈のように重く、不規則なリズムで打ち据えている。
額からはベタリとした冷や汗が流れ落ち、ジャケットの下の皮膚には鳥肌が立っていた。
——極度の過労と、急激な気圧変化による自律神経の深刻なエラー。
連日の心霊スポット踏破によるストレスが、涼音の身体に急性の末端冷え性と血行障害を引き起こしているのだ。外気温が三十五度を超えていようと、彼女の指先は氷のように冷え切り、感覚がひどく鈍かった。
「……都市部のヒートアイランド現象による、異常な気温上昇。しかし、私のバイタルサインは著しく低下しています。慢性的な疲労が、体温調節機能を完全に破壊している証左ですわ」
涼音は、小さく震える息を吐き出しながら、自身の体調不良に対する完璧な医学的診断を脳内で構築した。
足先が冷たい。呼吸が浅い。
だが、そんな身体的エラーなど、今の涼音にとっては取るに足らない背景のノイズでしかない。
重要なのは、目の前で躍動するこの圧倒的な熱源——夏帆の背中から放たれる莫大なエネルギーを、一滴残さず自らの皮膚で吸収することだ。
「あっ! 自販機見っけ! 水分補給のタイミングばっちり!」
夏帆が小走りで歩道の脇にある自動販売機へと向かう。
涼音は、夏帆が移動したことで突然日差しを浴びることになり、チカチカとする視界のノイズを瞬きで強引に処理しながら、十五センチの距離を保ってその後を追った。
ピッ、ガコンッ。
夏帆が電子マネーで飲み物を購入し、取り出し口から二つのアルミ缶を引っ張り出した。
一つは、表面に水滴がびっしりとついた、キンキンに冷えた強炭酸のスポーツドリンク。
もう一つは。
「ほら、涼ねえね! クールダウンにはこれっしょ!」
ドンッ。
夏帆が、赤いラベルに『あったか〜い』と書かれた激熱のブラックコーヒーの缶を、涼音の青白い頬に容赦なく押し当てた。
炎天下の三十五度の猛暑の中で、ホットコーヒーによる物理的な熱伝導。
「っ……!!」
ジュゥゥゥゥッ、と涼音の凍りついていた皮膚の表面が焼き焦がされるような錯覚。
圧倒的な熱が、頬の毛細血管を伝って、冷え切った脳髄へと一気に流れ込んでくる。
狂ったように重く沈んでいた心臓の鼓動が、その熱に引火したように、ドクンッ!! と爆発的な跳躍を見せた。
涼音は熱い缶を押し付けられたまま、チタンフレームの奥の瞳孔を限界まで収縮させた。
「顔色めっちゃ悪いし、手も氷みたいに冷たいまんまじゃん! 真夏なのに冷え性ヤバすぎでしょ! しっかり熱入れとけって!」
夏帆が、底抜けに明るい、しかし一切の妥協を許さない強い視線で涼音を見下ろしてくる。
その瞳の奥には、樹海で涼音の冷え切った手首を掴んだ時の、あの異常なまでの切迫感と執着が、狂気的な熱量となって燃え盛っていた。
絶対に、この冷え性の女を冷たくさせない。自分の体温と熱で、強制的に温め続ける。
それが、夏帆という存在の無意識下に刻み込まれた、絶対的な行動原理となっていた。
「……皮膚の温度感覚を、何だと思っているんですか。このような極端な温度差は、毛細血管に致命的なダメージを与えますわ」
涼音は氷のように冷徹な声で文句を言いながら、頬に押し当てられたホットコーヒーの缶を、自らの両手で受け取った。
熱い。火傷しそうなほどの熱が、氷点下の指先を容赦なく溶かしていく。
涼音は右のポケットからアルコール純度高めの除菌シートを引き抜くと、不機嫌そうな顔のまま、夏帆の指紋がべったりとついたアルミ缶の表面を、キュッ、キュッと執拗な力で拭き始めた。
「……それに、自販機の取り出し口の衛生状態は劣悪です。直接皮膚に押し当てるなど、感染症のリスク管理が破綻していますわ」
涼音の口から、分厚い理屈の城壁が澱みなく紡ぎ出される。
だが、除菌シート越しに缶を握りしめる涼音の指の力は、汚れを拭き取るという目的を遥かに逸脱していた。
夏帆が買ってきた熱。夏帆が自らの手で押し付けてきた熱。
涼音はその熱を少しでも逃すまいと、缶の表面の金属が凹むほどの異常な力でホールドしている。
自身の極度の体調不良も、冷え性も、この熱さえあれば完璧にコントロールできる。
涼音は除菌シートをポケットにしまい、熱い缶を両手で包み込んだまま、夏帆の放つ莫大な代謝熱の渦の中へと、自ら深く息を吸い込んだ。
「あはは! 相変わらず涼ねえねは綺麗好きのお母さんみたいだね!」
夏帆は自分の行動が理屈で否定されながらも、涼音が絶対にコーヒーを離そうとしない矛盾に全く気づかず、強炭酸のスポーツドリンクを一気に喉へ流し込んだ。
ゴクッ、ゴクッという力強い嚥下音が響く。
プハァッ! と息を吐き出した夏帆は、ジャージのポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップして涼音の目の前に突き出した。
「涼ねえね、見てこれ! SNSで最近めっちゃバズってる情報なんだけど!」
涼音がチタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、画面をスキャンする。
そこに映っていたのは、関東郊外の山奥にある、完全に崩落した廃トンネルの入り口の画像だった。
赤黒いサビと、壁面に無数に浮かび上がる人の顔のような染み。
添えられたテキストには、『入った者が必ず精神に異常をきたす最恐の怨念スポット』『絶対に近づくな』という警告の言葉が並んでいる。
「ここ、新しくできた地下アイドルのゲリラライブ会場らしいんだけど、音響マジでヤバいらしいよ!」
夏帆の野太い歓声が、セミの鳴き声を物理的に叩き割った。
怨霊の巣食う最恐の廃トンネルを、アンダーグラウンドなライブハウスと完全に誤認している。
夏帆の網膜には、血の染みも、死の警告も一ミリも入っていない。彼女の脳内ではすでに、コンクリートの反響音と重低音のビートが鳴り響いているのだ。
「トンネルのドーム構造がベースを直接腹に響かせるんだって! 次の休み、絶対ここ行こうぜ!」
夏帆が、満面の笑みで涼音を振り返った。
太陽の光を背に受け、夏帆のシルエットが圧倒的な質量と光を放っている。
涼音は、両手で持った激熱のブラックコーヒーを、そっと自分のスーツの胸元に抱え込んだ。
狂ったような動悸。冷え切った指先。浅い呼吸。
この異常な体調不良の正体が何であろうと、もはやどうでもいい。
この圧倒的な光と熱が、自分の隣にある限り、自分という存在の計算式は永遠にエラーを吐き出し続ける。
「……音響設備の整っていない閉鎖空間への侵入は、聴覚器官への深刻なダメージが懸念されます。加えて、崩落の危険性に対する構造力学的なリスク評価が——」
涼音は、氷のように冷たく、極めて論理的な否定の言葉を口にしながら、黒のパンプスを一歩前へと踏み出した。
「ですが、前衛の突発的な行動による被害を最小限に抑えるためには、後方支援による完璧なモニタリングが不可欠です」
涼音は、夏帆の右斜め後ろ十五センチの特等席へと、寸分の狂いもなく音もなく滑り込んだ。
そして、チタンフレームの奥の漆黒の瞳孔を夏帆の背中へと真っ直ぐに向け、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「……私の末端冷え性は、極めて重症ですから。貴女の熱がなければ、すぐにバイタルが低下してしまいますわ」
夏帆が「っしゃあ! 決まり!」と叫び、ナイキ・ショックスのバネを鳴らして歩き出す。
涼音は自身の胸の奥で重く打ち据える心臓の音を完璧な理屈で覆い隠しながら、その眩しすぎる背中を追って、夏の熱波に揺れるコンクリートの道へと、終わらない日常の歩みを進めていった。




