第八話 不倫の誘い
ある大会での出来事だった。
智久は、他会派から来ていた先生達の会話を偶然耳にした。
「この大会は審判の質が悪い。選手に悪影響だ」「来年から出場するのはやめよう」
智久の所属する会派が主催する大会だった。
確かに、高齢の先生方も多く、審判講習会に十分参加できていない者もいた。変化の激しい空手のルールに、対応しきれていない現実もある。
その言葉は、智久の胸に深く刺さった。
――自分が、やってみよう。
そう思った。
道場から、自分を含め七人の審判が育てば、各コートに配置できる人数になる。
そこから、智久は積極的に大会審判へ挑戦するようになった。
手本にしたのは、やはり黒田先生だった。
昔の大会映像を何度も見返し、黒田の動き、旗の上げ方、間合い、視線――その全てを参考にした。
やがて、ローカルの大会などで審判を褒められるようになる。
「君、黒田先生と審判のやり方が似てるね」
他流派の先生からのその言葉は、何よりの誉れだった。
だが、黒田の背中は、遥か先にあった。
追いつけなくてもいい。せめて背中が見える場所までは行きたい。
そう思いながら、智久は努力を続けていた。
同じ頃、灰原も審判を始めていた。
慢性的な審判不足の世界だ。人数が多いに越したことはない。
智久は、出来る限り上手く付き合おうと努めていた。
ある日、操から相談の連絡が入った。
息子の進学についてだった。
龍彦が通う天星中学・高校に興味があるという。
定期的に行われている小中合同練習に、一度参加してみたらどうか。智久はそう提案した。
操の息子は、空手部の練習や学校の雰囲気、授業内容を気に入り、進学を決意する。
同じ頃、智久の友人からも進学相談を受けていた。
智久は、天星高校空手部監督・久松に相談した。
すると、「一度、道場へ選手を見に行きます」と返事をもらった。
監督が道場へ来た日、智久も見学に向かった。
しかし、そこで話題になったのは操の息子ではなかった。
黒田春夫が、晶をコーチとしてどうかと推薦したのだ。
智久は悟った。
――もう、先生方の間で話は進んでいるのだ。
それなら、自分が間に入らない方がいい。
そう思った。
だが、智久には引っかかる事もあった。
他言無用で頼んでいたはずの話を、晶は父へ話したのだろうか。
結局、その話は大きく進展しないまま時間だけが過ぎていった。
その後、仕事を探していた晶は、操の夫が経営する会社へ入社する。
操によれば、晶が会社や夫の考え方に惹かれたらしい。
それ以降、操からの連絡は毎日のように届いた。
内容の多くは愚痴だった。
「空手優先で夜勤をやらない」「運転もしない」
そんな話ばかりだった。
だが智久には、人様の仕事に他人が口を出す資格などないと思えた。
晶にも、操にも、軽々しく何かを言う気にはなれなかった。
しかしその後、操は晶の私生活の話まで打ち明けるようになり、智久は少し困惑していく。
晶がこちらへ戻ってきてから、周囲の評判が悪い事には気づいていた。
それでも智久は、噂だけで人を判断したくなかった。
自分の目で見るまでは、情報に流されたくなかった。
そんな中、さらに厄介な話が持ち込まれる。
智久の後輩、井出からだった。
「先輩、道場関係者に蓬田先生と虻川さんっている?」
「この二人、不倫関係ですよ。ちょっと危ない人達だから気をつけてください」
智久は、正直関わりたくなかった。
二人とも知っている。
毎週合同練習をしている、白鳥道場と親しい道場の関係者だった。
数日後、さらに予想外の話が耳に入る。
操が、虻川を含む三人で女子会を開いたというのだ。
その席で、虻川は操へ不倫を勧めてきたらしい。
今、そんな火種を持ち込まれては困る。
智久はそう感じた。
合同練習の日。
稽古前に虻川へ注意しようとした。
しかし、その日虻川は来ていなかった。
代わりに、女子会へ参加していた別の女性へ話をした。
「他道場の人間へ、不倫を勧めるような事はやめてほしい」
智久は冷静に伝えたつもりだった。
だが相手には、“智久が怖い”という印象だけが残った。
後日、虻川から電話が来た。
凄まじい剣幕だった。
興奮しすぎていて、何を言っているのか分からない。
だが、二つの言葉だけは鮮明に伝わった。
「旦那には全部話してあるからね!」
「親が師範のいとこだから! 安倍さんを空手界にいられなくする!」
智久は呆れた。
もし話が大きくなり、不倫の事実まで広がれば、本当に困るのは虻川本人のはずだった。
だが虻川は、自分に都合のいい形で今回の件を白鳥道場関係者へ広めていった。
当然、不倫相手である蓬田にも伝わっているだろう。
また新たな、“スメアキャンペーン”の仲間が増えた。
白鳥道場の人間は、不倫の事実も、虻川が何をしたのかも知らない。
ただ、「智久が問題を起こした」という印象だけが積み重なっていく。
誰かを庇えば、自分が悪者になる。
何かを守ろうとすれば、裏切られる。
智久は、空手の世界に渦巻く理不尽さへ、少しずつ怒りを募らせていった。
この作品には、作者自身の経験をもとにした描写が含まれています。
ただし、登場人物名・団体名・設定・時系列などは、作品として再構成したフィクションです。




