第五話 ダークトライアド
伊豆川事件と同じ頃、白鳥道場に二家族が入門してきた。
灰原家と金城家。父親と子供二人ずつ、計六人の入門だった。
それまで大会に出る選手は三人ほどしかおらず、道場は一気に活気づいた。
智久にとっても、人が増えることはありがたかった。これまで、道場のTシャツ作りや、先生・選手たちの送迎など、多くを一人で担ってきたからだ。
中でも灰原は、積極的に道場の手伝いをした。
そんなある日。
買い物中の智久は、後ろから声をかけられた。
振り返ると、小学生時代の同級生、操だった。
結婚し、近所に住んでいるらしい。智久が空手のジャンパーを着ていたことで、操は興味を持った。
後日、操は長男を連れて入門。さらに数ヶ月後には、長女も入門した。
智久は、操に対してあまり良い印象を持っていなかった。しかし、それは小学生時代の話だ。
大人になった今まで引きずるのも違う。そう思い、胸の奥にしまい込んだ。
さらにその後、もう一人、偶然の再会があった。
小学生時代の同級生、節子だった。
彼女もまた近くに住んでおり、一人息子を白鳥道場へ入門させた。
白鳥道場の指導者、黒田春夫と灰原は同い年だった。伊豆川や剣持、そのほかにも同年代の父兄が数人いた。
その多くが、若い頃は“つっぱっていた”人間たちだった。
そして智久は思う。
伊豆川は、そういう仲間たちと同じ場所で空手をしている事に、どこか優越感を抱いているのではないか――と。
それこそが、伊豆川事件の原因だったのではないか。
智久は、これからの進退を、常に考えていた。
晶が帰ってくれば、状況は変わる。そう信じていた。
しかし、娘の咲良も、もうすぐ龍彦が空手を始めた年齢になる。
そろそろ始めさせたい。
だが、白鳥道場には伊豆川がいる。
女の子を通わせるには危険すぎた。
悩んだ末、智久は、晶が帰ってくるまでの間だけ、自分の通う別の道場へ咲良を連れて行く事にした。
幼い咲良は、自分も兄と同じ白鳥道場の一員だと思っていた。
「ニィニと同じ道場なんだよね?」
無邪気に笑う咲良に、智久はうまく答えられなかった。
そんな頃からだった。
智久は、少しずつ疎外感を覚えるようになる。
特に気になっていたのが、灰原という父兄だった。
どこか胡散臭い。
伊豆川との揉め事も、その事情も、深く知っているはずがない。それなのに、ズケズケと踏み込んでくる。
時折、自分が年上である事を匂わせるような言い方もした。
今で言う、“マウント”を取っているのだろうか。
いつもニコニコしている。だが、その笑顔の奥にあるものが、智久にはどうしても気になっていた。
やがて灰原は、父母会の発足を進め始めた。
智久は反対した。
父母会費――つまり金の話を、そんな簡単に決めてはいけないと思ったからだ。
しかし灰原は聞き入れなかった。
「エアコン代や、入賞者への図書カードを、白鳥先生が自腹で払うのはおかしいでしょう?」
そう言って父母会を作り、会費の徴収を始めた。
“任意”という形だった。
だが、払わないという空気ではなかった。
そこから、灰原の存在感は急激に強くなっていく。
Tシャツは、これまでと違う業者で勝手に作られた。道場のポスターも、他の父兄に相談なく制作された。
しかも写っているのは、自分の子供と、仲の良いメンバーばかりだった。
クリスマス会も、いつの間にか企画されていた。
智久たちには、何の連絡も無かった。
まるで来るのを拒むように。
大会では、安倍家だけパンフレットや参加賞を渡されない事もあった。
周囲からは、言われたことがある。
「灰原さんと安倍さんって、似てるよね」
道場のためによく動く人間同士だ、と。
だが智久は、まるで違うと思っていた。
灰原は、子供たちや先生、道場のために動いているわけではない。
自分の評価のために動いている。
智久は、そう確信していた。
――ダークトライアド。
灰原は、その言葉が当てはまる人間だった。
龍彦は中学生になり、一年生で再び全国大会への切符を掴んだ。
だが、三年生に上がる頃、また環境が変わる。
部のコーチが辞める事になったのだ。
龍彦が心から尊敬していた指導者だった。
そのコーチは、短い時間に何人もの全国選手を育て上げてきた人物でもある。
父兄たちに惜しまれながら、コーチは去っていった。
皆、困惑していた。
「誰か、代わりに良い先生はいないか?」
そう聞かれる日々が続く。
その時、智久の頭に浮かんだのは、黒田晶の存在だった。
帰ってきたら道場を開く。
そう言われたのは、もう数年前。
だが全国大会で年に一度会うたび、
「来年には帰る」
その言葉だけが繰り返されていた。
帰れないなら、一本くらい連絡が欲しかった。
だが、晶にも事情があるのだろう。智久は、そう思うようにしていた。
その間にも、咲良の時間は過ぎていく。
もう、待てなかった。
考え抜いた末、智久は決断する。
娘を、自分たちの流派から離す事を。
同じ流派・会派にいれば、いつか伊豆川の攻撃が咲良にも向くかもしれない。
この子のために、自分も必死に流派の形を学んできた。
それでも――。
智久は、断腸の思いで、咲良を他流派へ預けた。
そしてこの頃から。
智久の知らない水面下で、少しずつ。
確実に。
スメアキャンペーンへ向けた歯車が、回り始めていた。
この作品には、作者自身の経験をもとにした描写が含まれています。
ただし、登場人物名・団体名・設定・時系列などは、作品として再構成したフィクションです。




