第三話 土砂降りの中の暴挙
龍彦、小学五年生の年始。
毎年恒例となっている空手の合宿へ向かった。
保護者や指導者も宿泊で参加する大規模な合宿で、最終日には大会も開催される。主催者は流派でもトップクラスの審判員で、のちに智久も、この場所をきっかけに審判の道へ進むことになる。
参加している子供達も、全国から集まった強豪選手ばかりだった。
「県大会を勝ち抜いて、また全国で会おう」
それが、この合宿の合言葉だった。
かつては晶も参加しており、食事が合わない晶を連れて、二人でラーメン屋へ行ったこともあった。
しかし今回、白鳥道場の先生方は都合が合わず、後からの参加となっていた。
白鳥道場側の大人は、智久と伊豆川の二人だけ。参加選手は五人。
引率は、智久が引き受けていた。
伊豆川にとっては、周囲は知らない人ばかりだった。中には、テレビや雑誌で見かける有名な先生方の姿もある。
最初こそ極度に緊張していた伊豆川だったが、夜の飲み会では、すっかり打ち解けているようだった。
だが――
夜遅くまで騒ぎ、翌朝になると、飲み残した酒をベランダから捨てていた。
そんな姿に、智久は強い嫌悪感を抱いていた。
合宿最終日。
試合を終え、一同は地元へ戻った。
智久は係の仕事をしていたため、龍彦の試合をほとんど見ることができなかった。
地元へ到着すると、合宿に参加できなかった大人達が、中華料理店で待っていた。
智久は、そのまま帰宅しようとした。
だが龍彦が、
「みんなと一緒にご飯食べたい」
そう言った。
弥生に確認すると、
「なんか嫌な予感するから、やめた方がいい」
そう返ってきた。
弥生が警戒していた相手は、伊豆川だった。
飲み会のたび、なぜか智久に絡む。この日も、何か起きる気がしていた。
大雨の夜。
一同は中華料理店に集まった。
合宿に参加できなかった先生が、子供達へ試合結果を報告するよう促した。
龍彦は少し誇らしげに、
「三試合勝ちました」
そう報告した。
その瞬間だった。
酒に酔った伊豆川が、大声を上げた。
「おい龍彦! てめぇ嘘つくんじゃねぇ!」
店内の空気が止まる。
「二試合負けただろ! だから俺は、お前をぶん殴ってやったんだ!」
――殴った?
智久の思考が止まった。
息子を指導したこともない男が。試合に負けたという理由だけで、龍彦を殴った?
一気に吐き気が込み上げた。
「帰ります」
智久は静かに席を立った。
一瞬、我に返った伊豆川が言った。
「安倍さん帰るのか? じゃあ支払いは俺がしとくよ」
智久は低く返した。
「結構です。子供達全員、親御さんから夕飯代を預かっていますので」
その瞬間だった。
伊豆川は勢いよく立ち上がり、
「なんだてめぇ! 文句あんのか! 表来い!」
そう怒鳴り、智久の胸ぐらを掴んだ。
そのまま、土砂降りの外へ突き飛ばした。
伊豆川は屋根の下。智久だけが、階段下の豪雨に打たれていた。
「……何故、こんな事をするんですか?」
智久は雨の中で問いかけた。
「僕らが、何をしたっていうんですか?」
伊豆川は怒鳴る。
「うるせぇ! お前、生意気なんだよ!」
「生意気って……」
智久は理解できなかった。
「僕と伊豆川先生、今までほとんど話した事すらないじゃないですか」「ちゃんと理由を説明してください」
すると伊豆川は、顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「昨日今日空手始めた奴が、偉そうに貴ちゃんに空手語るんじゃねぇ!」
貴ちゃん――白鳥道場の剣持貴雄のことだった。
優しく、空手に熱心な人物。智久と同時期に空手を始め、智久の入賞を心から喜んでくれる男だった。
「いつか黒帯取りましょう」
そんな話を、よく交わしていた。
今の剣持からは想像もできないが、学生時代は“不良界のカリスマ”と呼ばれた存在だった。
伊豆川は、高校時代、遠くから見ている事しかできなかったらしい。時を経て知り合えたことが、よほど嬉しかったのだろう。
だが当然――
剣持は、伊豆川の事などほとんど知らなかった。
「……え?」
智久は呆然とした。
「それだけで、こんな事を?」
「今、自分が何をしてるか分かってますか?」
すると伊豆川は、更に意味不明な言葉を並べ始めた。
「まだある!」
「お前、全日本の時、山王高校の監督と話しただろ!」
「本当は、俺が話すタイミングだったんだ!」
智久は理解できなかった。
山王高校。全国屈指の強豪校。
その西監督は、高校空手界では知らぬ者のいない存在だった。
「あんた……まさか」
智久は、怒りより先に恐怖を感じていた。
「そんな理由で?」「それで、俺が気に入らなくて……息子を殴ったのか?」
「そ、そ、そんなんじゃねぇ!」
明らかな動揺だった。
伊豆川はなおも叫ぶ。
「俺は白鳥道場と昔から付き合いがあるんだ!」「同じ釜の飯も食ってる!」「俺はよそ者じゃねぇ! 白鳥道場に帰ってきたんだ!」「お前より、俺の方が長いんだ!」
支離滅裂だった。
智久は、悪夢を見ている気分だった。
――こんな人間がいる場所に、息子を預けられるのか。
答えは、もう出ていた。
「僕は、この道場ではただの父兄です」
智久は静かに言った。
「あなた達とは年齢も立場も違う」「張り合う必要なんて、無いじゃないですか」
だが伊豆川は吐き捨てた。
「お前は都合いいんだよ!」「空手家だったり父兄だったり!」
そして最後に、こう叫んだ。
「お前は、白鳥道場のガンだ!」
――その瞬間、智久の心は決まった。
店へ戻る。
龍彦の手を取り、先生方へ頭を下げた。
「先生方、お世話になりました」「龍彦は、今日で道場を辞めます」
その言葉を聞いた龍彦が、不安そうに尋ねた。
「お父さん……俺のせい?」
智久は、静かに首を横に振った。
外では、さらに雨が強くなっていた。
まるで、安倍親子の涙を隠すかのように。
この作品には、作者自身の経験をもとにした描写が含まれています。
ただし、登場人物名・団体名・設定・時系列などは、作品として再構成したフィクションです。




