第二話 トラブルの始まり
龍彦は、小学五年生になっていた。
この頃には、父・智久も空手道場へ通っていた。
智久は夜勤専門の仕事をしていたため、龍彦と同じ時間帯の稽古には参加できなかった。
そこで龍彦の師である白鳥隼人先生へ相談し、親交のある別支部を紹介してもらうことになった。
同じ会派の支部同士だったため、教わる内容に大きな違いはない。
大会では、親子で同じ会場に立つこともできた。
智久には、ひとつの考えがあった。
息子に口を出す以上、自分も同じ世界に立たなければならない。
ただ見ているだけでは駄目だ。
自分も習い、試合に出て、同じ苦しさを知るべきだと考えていた。
しかし、その行動を面白く思わない人間も少なからずいた。
智久も、薄々それには気づいていた。
だが、この頃はまだ、知らないふりをしていた。
智久には、憧れている空手家がいた。
黒田晶の父、黒田春夫先生だ。
そして、好きな選手は、息子の晶だった。
春夫は数々の輝かしい実績を残し、指導者としても審判としても一流だった。
息子の晶もまた、県内では敵無しと言われる存在で、小学生時代には日本一にまで上り詰めていた。
中学生になった晶は、龍彦をはじめとする道場の子供達を可愛がり、よく面倒を見ていた。
子供達にとって、憧れの先輩だった。
智久が仕事で不在の日。
妻・弥生が体調を崩した時には、晶が自転車で龍彦を迎えに来てくれたこともあった。
智久が晶を好きだった理由は、強さだけではない。その優しさにも惹かれていた。
そんな晶も、龍彦が五年生になる頃には、県外の高校へ進学していた。
県内にも全国屈指の強豪校は存在した。
それでも晶は、あえて県外を選んだ。
この時の智久達は、まだ知らなかった。
そこには、様々な事情があったことを――。
龍彦もまた、自らの進路を考え始めていた。
空手部のある中学校へ進学すること。
当時、空手部が存在する中学の多くは私立だった。
つまり、中高一貫。
高校を別の学校へ変えることは難しくなる。
それでも龍彦は、団体戦をやりたかった。
道場には、団体を組めるほど同世代の仲間がいなかった。
中学の団体戦は三人制。高校は五人制だった。
後に少子化の影響で高校も三人制を採用するようになるが、この頃はまだ五人制しか存在しなかった。
空手部のある学校へ行けば、団体戦ができる。
龍彦は、自分の流派とも関係の深い太陽学園への進学を考えていた。
そんな中――
白鳥道場に、一人の男が指導者としてやってきた。
伊豆川琢馬。
後に、道場と安倍家へ最悪の災いをもたらす男だった。
伊豆川は、以前所属していた道場で問題を起こし、同級生だった黒田春夫を頼って白鳥道場へ移籍してきた。
智久は素直に喜んでいた。
晶が県外へ行き、道場生も減り始めていた頃だった。
指導者が増えることは、道場にとって良いことだと思っていた。
だが、その考えは、すぐに崩れることになる。
伊豆川が移籍して初めて迎えた大会。
それは、同じ市内で開かれる、初めて招待された大会だった。
智久は、目の前のコートで審判を務める伊豆川を見ていた。
どんな審判をするのか。そんな軽い興味だった。
しかし、その内容は異常だった。
当時のルールでは、主審の権限が強かった。
仮に主審が赤にポイントを認め、副審一人が青を支持したとしても、主審側が優先される。
だが、副審二人が青なら、青にポイントが入る。
多数決によって判定が決まるルールだった。
しかし伊豆川は、そのルールを平然と無視した。
自分の所属する会派の選手にだけ、一方的にポイントを入れ続けた。
副審の旗など見ていなかった。
智久は嫌な汗を流していた。
空手の試合には、監査役がいる。
当然、その異常さに気づいた監査が怒鳴った。
「あんた、何を見てるんだ!」
会場の空気が凍りついた。
だが伊豆川は、悪びれる様子もなく、軽く手を挙げただけだった。
「はいはい、悪い悪い」
その態度に、智久は言葉を失った。
だが、本当の問題は、その後だった。
試合終了が近づいた頃、智久はコート係の知人に呼び止められた。
普段は温厚な人物だった。
しかし、その顔は鬼のようだった。
「安倍さん。あの伊豆川って審判、そっちの道場なんですか?」
智久の心臓が、大きく脈打った。
「ええ……最近入った方で、僕もそこまで面識は――」
最後まで言えなかった。
「あの人、何なんですか!?」
怒声だった。
「形の試合中、演武してる女子選手を見ながら、いやらしい言葉ばっかり言ってたんですよ!」
智久の顔から血の気が引いた。
「大会本部に話します。白鳥道場は出入り禁止にしてもらいますから」
智久は必死に頭を下げた。
「申し訳ありません……こちらで必ず対応します。今日のところは、どうか穏便に……」
相手は険しい顔のまま言った。
「次はありませんから」
その言葉が、事態の重大さを物語っていた。
その夜。
入賞者も多かったため、祝勝会が開かれた。
そこには、伊豆川の姿もあった。
監査に注意されたことを根に持ち、コート長の悪口を延々と話していた。
智久は悟った。
この場でセクハラ発言の件を出せば、間違いなく揉める。
後日、別の先生へ相談するしかない――。
しかし、伊豆川の暴走は止まらなかった。
白鳥道場には、もう一人、全国大会へ出場した選手がいた。
龍彦の二つ年上の幼馴染。全国五位に入った実力者だった。
ある日、道場で練習試合が行われた。
伊豆川は、中学生相手にも容赦なく攻撃を加えた。
それは寸止めではなかった。
本気で殴り倒しにいく組手だった。
そして、龍彦の幼馴染が相手をすることになった。
結果は圧勝だった。
誰の目にも、実力差は明らかだった。
試合を終え、礼をしてコートを下りる幼馴染。
その背中へ――
伊豆川が突然走り込んだ。
そして、そのまま飛び蹴りを叩き込んだ。
幼馴染は前につんのめるように倒れ込んだ。
一瞬、道場が静まり返る。
智久は呆然としていた。
こんな人間が、本当に指導者なのか――。
夏の合宿でも、伊豆川の異常行動は続いた。
旅館の従業員へ下半身を見せる。暴言を吐く。酒に酔って騒ぎ立てる。
ついに智久は、先生方へこれまでの出来事を相談した。
その結果、伊豆川には厳重注意が下され、少年部の指導から外されることになった。
だが――
それで終わりではなかった。
年が明けた頃。
伊豆川は、智久に対して、ある重大な事件を起こす。
そしてその事件こそが――
“スメアキャンペーン”の口火となっていく。
この作品には、作者自身の経験をもとにした描写が含まれています。
ただし、登場人物名・団体名・設定・時系列などは、作品として再構成したフィクションです。




