第一話 違和感
「ただいま……」
力なく帰宅した中学生の龍彦は、血まみれだった。
――時は、十一年前に遡る。
安倍家の長男、龍彦は、母・弥生に連れられ、ある道場へ見学に来ていた。「空手」だった。
近所の子供達が通っていた縁もあり、龍彦も空手を始めることになった。
当時、まだ幼年だった龍彦は、試合ではいつも年上相手だった。二学年合同で行われる大会が多く、身体の大きな相手に吹き飛ばされることも珍しくなかった。
同じ時期に入門した一つ上の少年、優太は違った。
「形(型)」も「組手」も優秀で、真面目。先生から褒められることも多かった。
一方の龍彦は、落ち着きがなく、よく叱られていた。
龍彦の父・智久は、空手に関しては素人だった。ただの習い事。最初は、その程度にしか考えていなかった。
しかし、あるローカル大会の日。智久の中で、空手への考え方が大きく変わる出来事が起きる。
大会終了後、入賞した子供達が賞状を持ち、記念撮影をしていた。
その中に、龍彦の姿は無かった。
探し回った智久は、会場の端で一人、落ち葉をいじって遊ぶ龍彦を見つける。
「こんなところで何してる。写真撮るぞ」
智久が手を差し伸べると、龍彦は首を横に振った。
「嫌だ……」
「みんな賞状持ってるのに、僕だけ持ってない」
「写真、写りたくない……」
智久は、しゃがみ込み、龍彦の頬を両手で包んだ。
「いいか。よく聞け」
「賞状やトロフィーは、誰かに貰うものじゃない」
「お父さんが買ってやるものでもない」
「欲しいなら、自分で勝ち取るしかないんだ」
龍彦は黙って頷いた。
その日から、安倍家の空手人生は大きく動き始める。
――一年後。
優太の母・舞子は、勝敗に異常なほど執着していた。
大会のたびに順位を確認し、誰に勝ったのか、先生に何を言われたのか、細かく優太へ聞いていた。
優太は、そんな母親の期待に応えようと必死だった。
そしてついに、優太は形の大会で県一位を獲得。さらにブロック大会でも優勝し、周囲から一目置かれる存在になっていった。
その頃、龍彦は小学一年生になっていた。
相変わらず年上相手の試合が多く、中々勝てなかったが、ついに初めて賞状を手にする。
形試合、県二位。
小さな賞状を抱えて帰宅した龍彦を見て、智久は本気で嬉しかった。
そして、初めて学年別で行われた大会。
上位二名のみが、県代表として全国大会へ進める大舞台だった。
優太は、流派内ではトップ選手だった。しかし、全流派が集まる大会では、入賞することができなかった。
一方、龍彦は快進撃を見せる。
気づけば、全国大会まであと一勝の準決勝まで勝ち進んでいた。
だが、惜しくも敗退。
さらに三位決定戦へ回ることになった。
準決勝の相手は、すでに別部門で全国出場を決めていたため、三位でも全国への可能性が残されていた。
しかし、ここまで他選手より多く試合をこなしていた龍彦の体力は限界だった。
結果は敗北。
それでも四位入賞。来年のシード権を獲得した。
そして翌年――。
龍彦は決勝進出を果たし、ついに全国大会出場を決める。
決勝では敗れたものの、この時の優勝者とは、後に特別な関係になっていく。
二年生になった龍彦は、以前と違って年上相手ではなくなっていた。
流派大会では、形も組手も優勝。他の大会でも、常に上位へ入るようになっていく。
迎えた全国大会。
初戦の相手は、前年も出場していた他県の強豪選手だった。
「出場できるだけでも凄い」
そんな空気の中、龍彦は初戦を突破する。
二回戦で敗退したものの、“全国でも通用する”という手応えを残した大会だった。
――だが、暑い夏が終わった頃。
道場の空気が、少しずつ変わり始めていた。
なんだろう、この違和感……。
龍彦が勝ち始めたということは、一つ上の学年である優太達の世代が、以前ほど勝てなくなったということでもあった。
そして、優太の母・舞子は、次第に安倍家を避けるようになっていく。
陰口。
無視。
露骨な距離感。
空気が変わっていくのを、弥生も智久も感じていた。
道場には、先生の息子である黒田晶という少年がいた。
晶は週末になると、よく安倍家の車で送迎されていた。
しかし、それすらも舞子が割って入るようになる。
晶は、道場内で特別な存在だった。
その晶を、自分達の側へ置いておきたかったのだ。
気づけば、安倍家は少しずつ孤立していった。
だが、智久達の考えは違っていた。
空手をやっているのは子供達だ。
学年が違えば、ライバル関係も変わる。
そんな事で揉める意味が、理解できなかった。
やがて、一つ上の学年にいた多くの子供達は、互いを罵り合い、次々と辞めていった。
最後に残ったのは、男女一人ずつ。
そこに、優太の姿は無かった――。
その後も龍彦は、流派内で一位、二位を争う成績を残し続ける。
そして、小学校高学年へ入った頃。
安倍家は、ある“大きな事件”へ巻き込まれていくことになる。
家族の空手人生を壊した、あの事件。
――全ては、そこから始まった。
そして、龍彦はなぜ、血まみれで帰宅したのか。
この作品には、作者自身の経験をもとにした描写が含まれています。
ただし、登場人物名・団体名・設定・時系列などは、作品として再構成したフィクションです。




