北の英雄の絶望
【クレア視点】
アエレンデル中央治療院の特別病棟は、今や完全に凍てついた氷の牢獄と化していた。
「ガァァァ……ッ!」
「殺シテ……喰ラウ……!」
黒いヘドロのような異形へと変貌してしまったかつての患者たちが、氷の壁をガリガリと引っ掻いている。
私は肩で激しく息をしながら、白銀の剣を杖代わりにして立っていた。
彼女たちは元はただの人間だ。私には殺せない。
だから私は、この広大な病棟全体を『氷の結界』で覆い尽くし、彼女たちの動きを物理的に凍結・遅延させる道を選んだ。
(これで……ひとまずは外への被害を防げる。あとは王都からの援軍を……)
「相変わらず、無茶をするな。その『魔女の遺産』を、たった一人で守り抜こうとするとは」
――ゾクッ。
突如として、私の背後――いや、完全に死角である右側から、ひどく聞き慣れた男の声が響いた。
私は反射的に剣を振り抜いた。
――ガキィィィンッ!!
火花が散る。
私の氷の魔力を纏った剣が、漆黒の金属でできた剣と激しく衝突した。
「あなたたち……この感染を早めたのは、貴様らね! 忌まわしき悪魔の教団!」
私は暗闇の中で剣を押し込みながら叫んだ。
私の目の前には、黒いローブを纏い、不気味な『カラスの仮面』を被った二人の男が立っていた。
「くくっ。我々が早めたわけではないよ、クレア」
カラスの仮面の一人が、剣を弾いて一歩後退した。
「我々はただ『観察』していただけだ。神聖なる遺産が、彼女たちの体内でどのように花開くかをね。何一つ干渉はしていない。安心してくれたまえ」
「ふざけるな! 全員ここで切り捨ててやる!」
私の怒りが頂点に達し、氷のドメインがさらに激しく吹雪を巻き起こした。
私は瞬動し、二人目のカラス仮面の男に向かって剣を閃かせた。
――シュパッ!
氷の華が咲き誇るような美しい一撃が、男のローブを袈裟懸けに両断する。
「ほう……東の学園にいた頃よりも、さらに腕を上げたな、クレア」
その声に、私の動きがピタリと止まった。
真っ二つに斬り裂かれた男は、カラスの仮面の下から、私にとってあまりにも見覚えのある顔を晒したのだ。
金色の髪。整った顔立ち。
私が東の騎士学園で、いつもいじめっ子たちから庇ってやっていた、気弱で心優しいクラスメイト。
「ベロ、ンツ……? なぜ、あなたがここに……?」
私は驚愕に目を見開いた。「それに、あなたはこの治療院の出資者のはずじゃ……!」
「そうさ。この箱庭のオーナーは俺だ。教団の素晴らしい実験場だよ」
ベロンツは、かつての気弱な少年の面影など微塵もない、醜く歪んだ邪悪な笑みを浮かべた。
「嘘……あなたが、教団の幹部だったなんて……!」
「お前が俺を三人の雑魚から守れると勘違いしていた時、俺はその裏で、学園の地下で三十人の命を供物に捧げていたのさ。……さあ、再戦と行こうか、クレア!」
――ガキンッ! トラァァンッ!
白銀と漆黒の剣が、氷の病棟で激しく交錯する。
しかし、二合、三合と打ち合ううちに、私は自分の体に起きている『致命的な異変』に気づいた。
「はぁ……はぁ……っ!? な、に……これ……?」
足に力が入らない。
氷の魔力を放出し続けているはずなのに、体の内側から、脳髄をドロドロに溶かすような『異常な熱』が湧き上がってくる。
腰の奥から、ビリビリとした甘い痺れが全身を這い上がり、呼吸をするたびに肺が熱く焼けた。
「あっ……ぁ……っ♡」
ガクッ、と膝から崩れ落ちた私の口から、信じられないほど甘く、淫らな吐息が漏れた。
私は自分の声に絶望し、必死に両手で口を覆う。
「気づいたか? ここに踏み入れた時から、お前はすでに我々の『策』の中にいたのだ」
ベロンツが残酷な笑みを浮かべて見下ろしてきた。
「病棟の空調に、特製の『魅了毒』を混ぜておいた。魔力を練れば練るほど、お前の体内の正常なマナを乱し、奥底に眠る『魔女の血』を強制的に発情させる劇薬さ」
「くっ……ひ、きょう、な……はぁっ、んっ……!」
私は立ち上がろうとしたが、太ももの内側がガクガクと震え、摩擦すらも快感に変換されそうになる恐ろしい感覚に襲われた。
額から大量の汗が流れ落ち、視界がピンク色に霞んでいく。鎧の下の素肌が、ひどく敏感になっていた。
「どうした、誇り高き北の英雄? 顔が真っ赤だぞ?」
ベロンツが下劣に笑いながらしゃがみ込み、その汚れた指先で、私の汗ばんだ顎をクイッと持ち上げた。
「んぁっ……! さわ、るな……ッ!」
私は睨みつけようとしたが、私の青い瞳はすでにトロンと潤み、ただの『欲情したメスの顔』にしかなっていなかった。
「いい顔だ。学園の高嶺の花が、こんなに男の『愛情』に飢えて震えているとはな」
ベロンツは私の顎から首筋へと、ゆっくりと指を滑らせた。
「ひゃあっ♡ やめ……殺す……ベロンツ、貴様だけは……!」
首筋をなぞられただけで、背筋に強烈な快感が走り、私は涙声で喘ぎながら抗議するしかなかった。
「強がるなよ。だが、お前が三人しかいないと思ったのは甘かったな」
ベロンツが指を鳴らすと、病棟の入り口から、新たに数十人のカラス仮面を被った教団兵たちが雪崩れ込んできた。
彼らの手には、赤々と燃え盛る炎の杖が握られている。
「殺しはしないさ。お前のその『魔女の血』は、教団にとって至高の宝だからな。……服を剥いで鎖に繋ぎ、地下の実験室でたっぷりと可愛がってやるよ、クレア」
ベロンツの指が、私の胸当ての留め具へと伸びてくる。
(ここまで、なの……?)
私は氷の床に倒れ込みながら、絶望に目を閉じた。
体が熱い。理性が溶けていく。王国のエリート騎士としての誇りが、こんな卑劣な罠で凌辱されようとしている。
――しかし。
私の意識が完全に絶望の淵に沈もうとした、その瞬間。
――ドゴォォォォォォンッ!!!
病棟の外側――廊下の方角から、建物を揺るがすほどの凄まじい爆発音が轟いた。
「ぎゃあぁぁぁッ!?」
「な、なんだ貴様はッ! グワァァッ!」
外に待機していたはずの教団兵たちの、断末魔の悲鳴が次々と響き渡る。
「な、なんだ!? 外で何が起きている!」
ベロンツが私の留め具から手を離し、驚愕して振り返った。
――ズドォォォンッ!!
次の瞬間、分厚い氷の壁と重厚な木製の扉が、外側からの圧倒的な力によって木端微塵に粉砕された。
舞い散る氷の破片と粉塵の向こうから、冷たい夜風が病棟の中に吹き込んでくる。
その粉塵の奥に。
灰色のフードを深く被った、一つの影が立っていた。
彼の左目は、暗闇の中で、血のように恐ろしい『真紅』の光を放っている。
右手に握られた剣からは、教団の炎魔法など児戯に等しい、地獄のような業火が立ち上っていた。
「あ、あなた、は……」
私は魅了毒で熱く火照る体を持て余しながらも、その姿をはっきりと捉えた。
昼間、私をからかい。
そして路地裏で私を救ってくれた、不思議な青年。
『俺はただの、通りすがりの亡霊さ』
彼が病棟に足を踏み入れた瞬間――不思議なことが起きた。
彼から放たれる、恐ろしくも甘い『圧倒的な闇の魔力(純粋な瘴気)』にあてられ、私の体内の毒が共鳴し、先ほどまでの不快な痺れが、別の強烈な『高揚感』へと上書きされていくのを感じたのだ。
(ああ……彼が、来てくれた……♡)
男は燃え盛る剣を軽く一振りし、教団員たちをフードの奥の赤い眼光で射抜いた。
そして、空気を凍らせるほど冷酷で、底知れぬ威厳を持った声で言い放った。
「やあ、黒い寄生虫ども」
男の口角が、凶悪な弧を描く。
「……お前ら全員、俺の漆黒の夜で丸飲みにしてやろう」




