生命転化の魔導書(オタマジャクシ)
窓から差し込む朝の光が、部屋を淡く照らしていた。
俺はベッドの端に座り、絶望的な痛みに耐えていた。
膝の上に頭を乗せてスヤスヤと眠るエリシアの寝顔は、確かに天使のように美しい。しかし、俺の両足はもはや感覚を失い、無数の針で刺されているような『極限の痺れ(正座の限界)』に襲われていた。
(限界だ……俺の足が死ぬ……!)
俺は息を殺し、極めて慎重な動作でエリシアの頭を持ち上げた。素早く備え付けの枕を滑り込ませ、自分の足を救出する。
エリシアは「んん……」と小さく寝返りを打ったが、起きる気配はなかった。
俺は生まれたての子鹿のようにプルプルと震える足を引きずり、部屋の薄暗い隅へと移動した。
空中にシステム画面を呼び出す。
現在のMPは【189 / 320】。
今朝の『クレープ無料券』というふざけたハズレを引かされた怒りが、ふつふつと蘇ってくる。
(クソッ。俺のMPをなんだと思ってるんだ。今度こそ、俺を『裏の支配者』らしく見せる、もっとヤバくて実用的なアイテムをよこせ!)
俺はヤケクソ気味に、160 MPを消費するガチャのボタンをタップした。
――チリンッ!
脳内でルーレットが回り、直後、部屋の隅で強烈な『黄金の光』が爆発しそうになった。
「おわっ!?」
俺は慌てて自分の制服を被せ、エリシアが起きないように光を必死に隠した。
光が収まった後、俺の手の中に残されたのは、一冊の分厚い本だった。
古びた灰色の装丁が施された、ひどく不気味なオーラを放つ魔導書。
【秘術の魔導書:生命転化】
レアリティ:A+
説明:古代に失われた術理。下腹部(丹田)に滞留するエネルギーを融解し、強制的に体外へ排出させる秘術。
※警告:対象は激しい苦痛、またはそれに伴う『抑えきれない声』を漏らす可能性があります。
俺はその説明文を読み、ゴクリと唾を飲み込んだ。
(下腹部にエネルギーを集中させて、体の中から無理やり破壊する……? おまけに相手は抑えきれない声を上げるほど苦しむって?)
まさに暗殺者のための『内部破壊魔法』じゃないか!
俺は本の表紙に描かれた、うねるような奇妙な模様――無数のオタマジャクシが女性のシルエットを形作っているような絵――を見つめた。
(なるほど、このオタマジャクシみたいな絵は、苦痛に泣き叫ぶ『亡者の魂』を表しているんだな! くぅ〜、ダークファンタジー感があって最高にクールだぜ!)
俺はすっかり有頂天になり、そのまま床に座り込んで魔導書を開いた。
ただアイテムとして吸収するのではなく、自らの目で術の構造を読み解く。根がゲーマーなせいか、こういう新しいスキルツリーの解放には時間を忘れて没頭してしまうのだ。
ページをめくるたび、本から青白い魔力の粒子がフワリと立ち昇り、俺の呼吸と共に体内へ吸い込まれていった。
* * *
数時間が経過し、窓の外が夕焼けに染まり始めた頃。
「ん……よく寝た……」
ベッドの方から衣擦れの音が聞こえた。エリシアが目を覚ましたらしい。
俺は本から顔を上げることなく、ただ黙ってページをめくり続けた。
彼女は伸びをした後、俺に背を向けて、手早く外出用の服へと着替え始めた。
その時だ。
魔導書の最後のページを読み終えた瞬間、俺の左目に熱い感覚が走った。
【システム通知】:パッシブスキル『弱点看破(急所命中率+30%)』を獲得しました。
(……なるほど。相手の『弱点』を視覚化する能力か。過去にやったゲームで、こういう能力を見たことがある。これなら俺の低い筋力でも、致命傷を与えられるな)
俺は静かに左目に意識を集中させた。
すると、いつもの紫色の瞳が、スッと燃えるような『真紅』へと変色した。
視界が変わり、部屋の温度や魔力の流れが可視化される。
俺は試しに、着替えを終えてこちらを振り返ろうとしていたエリシアの方へと視線を向けた。
(おっ、見えた。あそこがこいつの急所か)
俺の真紅の左目は、エリシアの『下腹部(子宮のあたり)』に、非常に小さく凝縮された赤い光の点――彼女自身も気づいていない、眠れる瘴気の種――をはっきりと捉えていた。
「ねえ、リュウナ。私、少し外に出て食べ物を買ってくるけど、何か――」
エリシアがこちらを振り向いた瞬間、言葉を失った。
薄暗い部屋の隅。俺は灰色の怪しげな本を片手に持ち、燃えるような真紅の左目で、彼女の『下腹部』を穴が開くほどジッと見つめていたのだ。息を潜め、極度の集中状態のまま。
「あ、何か買ってきてくれるのか?」
俺は素に返り、真紅の目を紫に戻しながら、いつも通りの気だるげな声で答えた。「俺はなんでもいい。お前が食べるものと同じでいいよ」
「え? あ、うん……分かったわ……」
エリシアはどこか引きつった顔で頷いた。
そして、部屋を出ようとドアに向かった時、彼女の視線がふと俺の手元の本――あの『オタマジャクシで描かれた女性のシルエット』の表紙――に止まった。
一秒。二秒。
エリシアの顔が、耳の先から首すじに至るまで、爆発したように真っ赤に染まった。
「あ、あ、あ、あんたっ! なにその本!?」
彼女は俺を指差し、裏返った声で叫んだ。
「ん? これか? ただの技術書だけど、どうかしたか?」
俺は本をパタンと閉じ、首を傾げた。暗殺技術の本だとバレたら警戒されるかもしれないと思い、あえて『ただの技術書』とごまかしたのだ。
しかし、その言葉を聞いたエリシアの目は、かつてないほどの軽蔑と羞恥で潤んだ。
「た、ただの技術書!? あんた……あんた、私を見つめながら、その『技術』を勉強してたっていうの!? うぅっ……! この、ド変態リュウナ!!」
バンッ!!
エリシアは顔を真っ赤にして叫ぶと、ドアを勢いよく閉めて部屋から逃げ出してしまった。
「…………は?」
残された俺は、一人ぽつんと首を傾げた。
「なんだあいつ? 暗殺術の本の表紙がちょっと不気味だったからって、なんで俺が変態呼ばわりされなきゃならないんだ? 全く、エルフの感覚はよく分からん」
俺は肩をすくめると、その恐るべき『生命転化の魔導書』を、机の上に無造作に放り投げたのだった。
* * *
――それから数時間後。
すっかり日が落ち、夜の帳がアエレンデルの街を包み込んだ頃。
――ガァァァンッ! ガァァァンッ! ガァァァンッ!
静寂を引き裂くように、街の中央時計塔からけたたましい警鐘が鳴り響いた。
「うおっ!? なんだ!?」
ベッドでゴロゴロしていた俺は飛び起き、慌てて窓へと駆け寄った。
眼下のメインストリートは、パニックに陥った群衆の悲鳴で溢れかえっていた。
窓から身を乗り出し、騒ぎの中心である『西門』の方角に目を凝らす。
炎と黒煙が上がっている。
そして、松明の光に照らされた城壁の上や門の周辺で、警備兵たちが『何か』と激しい死闘を繰り広げていた。
(なんだあれ……!?)
俺は目を疑った。
兵士たちに襲いかかっているのは、ゴブリンでもオークでもない。
ドロドロとした『黒いヘドロの塊』のような、不定形の不気味なバケモノの群れだった。
奴らは獣のような恐ろしい咆哮を上げ、物理的な剣の斬撃をドロリと飲み込んでは、兵士たちを次々と薙ぎ払っている。
(マジかよ、街の中にモンスターの襲撃!? 安全地帯じゃないのかよ! しかもなんだあのスライムの出来損ないみたいな闇属性モンスターは!)
俺は恐怖で後ずさりし、窓から離れた。
(冗談じゃない、あんな得体の知れないバケモノの群れ、俺のステータスじゃ一瞬で溶かされる! ここは部屋に鍵をかけて引きこもるのが一番だ!)
俺はベッドに潜り込もうとした。
……しかし、その時、部屋の隅にある空っぽの椅子が視界に入った。
(エリシア……あいつ、まだ帰ってきてない)
胸の奥が、嫌な音を立てて冷え込んだ。
あいつは数時間前、俺を変態呼ばわりして部屋を飛び出したきりだ。もし西門の近くにいたら? あのバケモノどもに巻き込まれていたら?
(クソッ……! あいつが死んだら、俺の『歩くマナ回復タンク』がなくなっちまうだろうが!)
俺は必死に、自分自身に言い訳をした。
(それに……まぁ、その、一応……今の俺の、唯一の『相棒』だしな)
俺は深いため息を一つ吐き出した。
ベッドの下に隠していた、漆黒のラインが入ったA+グレードの『名もなき夜の外套』を引っ張り出し、素早く肩に羽織る。
高い襟を立て、フードを深く被り、黒い手袋をはめた。
窓枠の上に音もなく飛び乗る。
夜風がマントを激しく揺らした。
俺は目を閉じ、意識を左目へと集中させる。
『パッシブスキル:弱点看破(急所命中率+30%)』
再び目を開いた時、俺の左目は燃えるような真紅へと染まっていた。
視界が劇的に変化する。
眼下を逃げ惑う人々や、遠くで戦う兵士たちの体に、生命力の流れや急所を示す「赤い点」が無数に浮かび上がって見えた。
俺はその真紅の魔眼で、黒煙の上がる西門を真っ直ぐに睨み据えた。
「やれやれ……仕方ないな」
俺は口角を上げ、極めて冷酷で、不敵な笑みを形作った。
「それじゃあ……『亡霊』の新しい力の、試し斬りと行こうか」
手袋の中で拳を軽く握り込む。
「このチートみたいな能力が、あの不気味なモンスターどもにどれだけ通用するか……見せてもらおうじゃねえか」
次の瞬間、俺の体は重力を失ったかのように窓枠から夜の闇へと飛び出し、A+マントの絶大な隠密効果と共に、街の屋根伝いへと溶け込んでいった。




