仮の身分
宿屋『眠れる白鳥』から外に出ると、アエレンデルの朝の冷たい空気が心地よかった。
俺はエリシアからもらった灰色の外套をしっかりと引き寄せ、新調した黒いシャツが隠れるようにする。
ズボンのポケットには、昨日の「ビジネス」で稼いだ銀貨の入った袋が、心地よい重みを放っていた。
俺たちの足は、再び冒険者ギルドへと向かっていた。
朝のギルドは昨日の夕方ほど混雑していなかったが、それでも特有の張り詰めた空気感が漂っている。
「リュウナ」
ギルドの重厚な木の扉に手をかける直前、エリシアが小声で囁いた。
「昨日、登録用紙に書いた名前……ちゃんと覚えてるわよね?」
俺は彼女をチラリと見た。
昨日の劇的な瞬間を思い出す。すぐ隣に、あの水色の髪のエリート騎士が立っていた時のことだ。
俺の羽ペンが羊皮紙に触れる直前、エリシアは顔面を蒼白にさせ、俺の服の裾を強く引っ張って囁いたのだ。
『私の名前を変えて。ナーヴェルじゃダメ。ここにいることを、絶対に知られてはいけない人がいるの』
だから俺は、その時思いついた最もありふれた偽名を書き込んだ。
「当然だ」
俺は前を向いたまま、鍛え上げられた気怠げな視線で答える。
「お前は『リア』。兄と一緒に旅をしている、ただの田舎娘だ」
エリシアは安堵の息を吐き、茶色いローブを握りしめていた指の力を少し抜いた。
「ええ。さっさとタグを受け取って、ここを出ましょう」
ギルドの中に入ると、昨日のような青髪の騎士の姿はなかった。
掲示板で依頼を確認している数人の冒険者がいるだけだ。
受付カウンターへ向かうと、昨日対応してくれた受付嬢のマリーが、すぐに俺の顔に気づいた。
「あ、昨日のお客様ですね! こちらが仮の発行タグになります」
そう言って、彼女は青銅でできた薄い金属のプレートを二枚差し出した。
俺はそれを受け取る。そこにはっきりと刻まれていた。
【 名:イシハラ・リュウナ | ランク:E 】
【 名:リア | ランク:E 】
ランクE。完璧だ。
俺は内心でガッツポーズを決めた。
(この最底辺ランクの二人組が、上位個体のオーガを瞬殺しただなんて誰が疑う? 誰も疑わねえよ。これぞ究極のステルス偽装だ)
「助かる」
短く礼を言い、一枚をエリシア(リア)に渡し、自分の分をポケットに突っ込んだ。
ギルドを出た直後、俺の腹の虫が小さく抗議の音を鳴らした。
思えば、まともな食事を口にするのは何世紀ぶりだろうか。
「先に朝飯にしよう」
俺は提案した。「さっきの交差点で、結構賑わってる屋台を見かけたんだ」
エリシアも頷いた。彼女も空腹だったらしい。
俺たちは、焼けた肉とスパイスの良い香りの湯気を立てている、通り沿いの屋台へと向かった。
質素な店構えだが、地元の客で溢れかえっている。美味い証拠だ。
一番目立たない隅の席に座る。
すぐに店員が、温かい黒パン、肉がゴロゴロ入った濃厚なシチュー、そして大きなジョッキに入ったハニーミルクを運んできた。
「はいお待ち! ゆっくり楽しんでいってくれ!」
俺はパンをちぎり、シチューに浸して、口へと運んだ。
(……ッッ!! なんだこれ、クソ美味ぇぇッ!!)
俺は内心で絶叫した。
(前世のコンビニ弁当なんかとは比べ物にならねえ! 異世界の飯、最高かよ!!)
「たくさん食っておけ、リア」
俺はあえて偽名を強調し、冷静なトーンを取り繕って言った。
「この後、俺たちには片付けるべき用事が山ほどあるからな」
最後の一口を飲み込み、テーブルに銅貨を数枚置くと、口元を上品に拭いているエリシアに顔を向けた。
「リア、お前は先に宿に戻って待機していてくれ」
誰にも聞かれないよう、声を潜めて指示を出す。
「俺一人で調達しなければならない『特殊な品』がある。すぐに戻る」
エリシアは俺の目をじっと見た。
見知らぬ街で一人取り残されるのは不安だろうが、命令に従う騎士の性分なのか、彼女は静かに頷いた。
「……分かったわ。気をつけてね」
交差点で彼女と別れた後、俺は両手をシャツのポケットに突っ込んだ。
屋台の商品を冷やかしているように見せかけながら、視線は鋭く周囲の路地を探索する。
地下の闇市場へと繋がっていそうな、暗くて人目のつかない裏路地を。
しかし、前方から金属の反射光が目に飛び込んできて、俺の足は止まった。
青と銀の中央王国軍の制服を着た兵士の小隊が、市場のテントの間を巡回している。
ただでさえ法執行機関との接触は避けたい。
俺は無用なリスクを回避するため、すぐさま踵を返し、二つのレンガ造りの建物の間にある、狭くて人気のない路地へと逃げ込んだ。
だが、その薄暗い路地に足を踏み入れて、わずか五歩目のことだった。
――ダンッ!!!
俺の死角から、白い鉄の肘当て(エルボーガード)に包まれた細い腕が突如として突き出され、俺の耳のすぐ横のレンガ壁を激しく叩きつけたのだ。
強烈な衝撃で、パラパラとレンガの粉が肩に落ちてくる。
同時に、胸を軽く、しかし絶対的な力でドンッと押され、俺は背中を冷たいレンガ壁に強く打ち付けられた。
退路は完全に塞がれた。
俺は凍りついた。
灰色のフードの影で、俺の視線はまず足元に向けられる。
そこに最初に映ったのは、膝上までの純白のストッキングに包まれた、すらりとした美しい脚だった。
視線がゆっくりと上に移動する。
白い戦闘用の短いスカート。動きやすさを重視した腹部の軽い布。
そして、着用者の見事な曲線に合わせて作られた、美しい鋼の胸当て。
最後に、路地の風に揺れる、淡い水色の長い髪に縁取られた端正な顔立ち。
クレア・スライヴェン。
エリート騎士の顔は、俺の顔からわずか数センチの距離にあった。
透き通るような青い瞳が、鷹のように鋭く俺を射抜いている。
圧倒的な支配者のオーラが、この狭い路地の空気を薄くさせていた。
クレアの美しい唇の端がゆっくりと吊り上がり、危険な警告を孕んだ薄い笑みを形作る。
「また会ったわね、灰色の外套さん」
低く囁くような、しかしレンガの壁に反響するほど威圧的なその声。
「ごめんなさいね。今、旅行者に対してちょっとした『定期的な職務質問』を行っているところなの。そして……」
彼女の視線が、俺の瞳の奥の奥まで探るように突き刺さる。
「……あなたも、その対象者の一人というわけ」
(終わった……ッ!)
俺は心の中で、今日一番の絶望の悲鳴を上げていた。




