第204話:過ちの果て
ひび割れた空から降り注ぐ赤黒い光の中、黒焦げの身体を引きずるようにして、魔王アレンはルルの目の前へと降り立った。
彼は震える手を伸ばし、泥と血にまみれたルルの小さな頬に、そっと触れた。
その瞬間。
『……あなた。泣かないで』
アレンの脳内に、優しく、愛おしい声が直接響き渡った。
それは間違いなく、先ほどこの世から消滅したはずの最愛の女性、イザベラの声だった。
ルルの中に継承された彼女の魂の残滓が、アレンとの魔力の接触によって奇跡的に言葉を紡いだのだ。
『イザベラ……! お前、生きているのか!? いや、この子は、一体……』
アレンが心の中で叫ぶと、イザベラはふふっと静かに笑った。
『私はもういないわ。でも、最後にこの子を守るために、私のすべてを渡したの。……アレン。この子はね、私たちのイリーナよ。無事に、こんなに大きく育ってくれていたの』
『イリーナ……だと?』
『ええ。私が防御を解いたのは、あの子のお腹に、あの時の火傷の痕を見つけたから。……私はね、少しも後悔していないわ。愛する娘の温もりを感じながら逝けたのだから』
イザベラの声が、ふっと薄れていく。
『イザベラ! 待ってくれ、イザベラっ!』
『……アレン。イリーナのこと、少しでもいい……あなたの言葉で、伝えてあげて……』
その言葉を最後に、アレンがルルから感じ取っていたイザベラの気配は、完全に途絶えた。
アレンの目から、黒い灰にまみれた涙が一筋、とめどなく流れ落ちた。彼は膝をつき、目の前で戸惑うルルを見つめ上げた。
「……まさか、おまえが……イリーナだったなんて」
掠れた、嗚咽の混じった声だった。
「あなたは……なんなの?」
ルルは警戒しながらも、どこか放っておけないような眼差しでアレンを見返した。
「全然わからないなの。さっきからお母さんの名前を呼んだり……知ってることがあるなら、全部教えてほしいなの」
アレンはゆっくりと頷いた。
「わかった。……お前には、それを聞く権利がある」
アレンは血を吐きながら、ゆっくりと過去を語り始めた。
◆
「元々、俺は異世界から転移してきた人間だった。そして、そこにいるリーネと出会い、この世界が作られた不完全な複製だという真実を聞いた。能力の開眼と修行をつけてもらい、俺は『種族を変更する能力』で魔族へと成り代わった。……根本の魂は人間のままだがな」
アレンの言葉に、後方で聞いていたアドルが息を呑むのがわかった。
「寿命を無期限に延長し、俺は世界のエラーである魔族を統制してきた。おまえも知っていると思うが、統率している中で、特に優れた能力を持った者たちを『四天王』と名付け、側近として俺の傍に置いていた」
アレンは遠い目をして、崩れゆく空を見上げた。
「全員が生粋の魔族だった。だが、あいつらはただの化け物じゃなかった。人と同じような感覚、感性を持っていたんだ。俺はすぐさま、そいつらに愛着が湧いた。長い長い時間を共有しているうちに……俺の中で、どうしても抑えきれなくなった感情があった。愛だ。」
アレンの視線が、再びルルへと戻る。
「第二の将イザベラは、俺にとって特別すぎる存在だった。四天王という肩書で側近ではあったものの、共に苦楽を乗り越えてきた仲間であり、最も信頼できる部下だった。そして……容姿も一際美しく、俺は彼女を愛してしまった。ある日、その思いを伝えると、イザベラは俺を受け入れてくれた。俺が人間であるという秘密を知っても、すべてを許容してくれたんだ」
アレンの顔に、わずかに優しい笑みが浮かんだ。
「そうして、俺とイザベラの間に、一人の娘が生まれた。名前は『イリーナ』と名付けた。……お前のことだ。当然だが、人間と魔族のハーフとして生まれた」
「……あたしが……」
ルルは呆然と呟き、自分の両手を見つめた。
「俺は能力で魔族に見せかけて生きていたが、さすがに娘がハーフであることは、他の魔族たちに説明がつかなかった。何日も何日も、イザベラと話し合った。しかし、いつまでも隠し通せるものではない。……苦渋の決断だったが、俺たちはイリーナを王都の教会へ置いてきた」
アレンの顔が、激しい後悔に歪む。
「魔族の王と配下の間に生まれたハーフなど、魔族にも人間にも、誰にも理解してもらえるものではないと思っていたから……本当に、ハーフであるお前をそのまま置き去りにしたんだ。その後どうなるか、ちゃんと生きられるか全くわからず、ただただ手放して放置するしかなかった。……本当に、すまなかった」
アレンが深く頭を下げる。
ルルはギュッと唇を噛み締め、大粒の涙をポロポロとこぼした。
「あたしは……昔の記憶がないなの。さっき、お母さんに会って……少しだけ思い出せた。でも、全部じゃない。覚えているのは、なんとか毎日を生き延びていた過酷な日々だけなの」
ルルの脳裏に、薄暗い路地裏で残飯を漁り、迫害されながら生きてきた記憶が過る。
そして、あの運命の日。
「そのあと、迷宮で魔物に殺されそうになった時……アドルさんに助けてもらえた。そして、今まで生きてこれたなの。アドルさんたちには、感謝してもしきれないなの」
ルルは涙を拭い、アレンを真っ直ぐに見据えた。
「結局、あなたが……お父さんで、イザベラがお母さんなの……?」
「そうだ……ごほっ」
アレンが激しく咳き込み、黒焦げの口から血が溢れる。
「もう、世界は崩壊する……俺の身体も、もう持たない。これは、俺がやってきた独りよがりな計画の……罰だな」
「勝手なことばかり言わないでっ!!」
ルルの悲痛な叫びが、戦場に響き渡った。
「罰だとか、そんなこと簡単に言わないでなの! あたしは……アドルさん、ミーシャさんたちに、本当によくしてもらえて、育ててくれたと思ってるなの。毎日が楽しくて、強くしてくれて、おいしいもの食べさせてくれて……本当のお父さんとお母さんみたいに思ってたなの!」
ルルは振り返り、満身創痍で座り込んでいるアドルとミーシャを見た。
二人は痛みを堪えながら、優しい目でルルを見つめ返していた。
「だから、アドルさんたちが人間を助けてやってきたことを、あたしは間違っていたとは思わない。でも、お父さんが世界を守るためにやってきたことも……正しかったのかもしれない」
ルルは再びアレンに向き直る。
「お互いが、ちゃんと話し合えばよかっただけだと思うなの……! 剣を交える前に、言葉を交わしていれば……こんなことにはならなかったなの! でも、もう……今更なの……」
ルルの言葉が、アレンの、そしてアドルの胸に深く突き刺さった。
「本当に、世界の崩壊は止められないなの?」
ルルが懇願するように問う。アレンは静かに目を伏せた。
「すまない。……もう、それは無理だ」
「……そうなの」
ルルは力なく両手を下ろした。
アレンは崩れゆく自分の身体を支えきれず、完全に地面に倒れ伏した。
「イリーナの言う通りだ。もっと早く……言葉を交わしていれば、また違った結果になっていたかもしれなかったな」
アレンは最後の力を振り絞り、遠くにいるアドルとミーシャへと視線を向けた。
「これだけは伝えておく。……錬金術師、そして魔法使い。イリーナを拾い、保護してくれたこと……本当に、感謝する……ごほっ、ごほっ……」
「……パパ」
ルルはアレンの冷えゆく手にすがりつき、顔を押し付けて泣き崩れた。
「うぅ……つらいことばかりなの……せっかく、お父さんとお母さんに……会えたのに……っ!」
「ルルちゃん……」
ミーシャが涙ぐみながら、這うようにしてルルの方へ手を伸ばそうとする。
アドルも黒焦げの左腕を庇いながら、立ち上がろうともがいた。
その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォッ!!
これまでとは比にならない、世界そのものにひび割れるような巨大な地響きが轟いた。
空は完全に砕け散り、巨大な虚無の穴が次々と口を開けていく。大地は裂け、王都の城壁が音を立てて崩壊していく。
「きゃぁぁっ!」
「ミーシャ! 大丈夫か!」
アドルが必死にミーシャの身体を抱き寄せる。
だが、もう錬成で防ぐことも、逃げることも不可能だった。物理的な破壊ではなく、空間と次元そのものが消滅し始めていたのだ。
崩壊の轟音の中、泣き叫んでいたルルも、倒れ伏したアレンも、そして空中に浮かぶリーネも。
誰もが抗うことをやめ、どこか焦点の合っていない、虚ろな目をしたまま。
ただ静かに、世界の終わりを待ち続けるのだった。




