第198話:絶望の戦斧
激しい金属音と、大地が砕ける轟音が平野に響き渡る。
第一の将ヴァンダルが振るう巨大な戦斧は、ただの物理攻撃の域を完全に超えていた。
斧が空を切るだけで発生する真空の刃が、ミーシャの頬を掠め、白磁のような肌に赤い線を引く。
「はぁっ、はぁっ……!」
ミーシャの呼吸は、すでに限界を知らせる悲鳴を上げていた。
何度も繰り返した空間跳躍の代償で、脳内の魔力回路が焼け焦げそうなほどの熱を持っている。
飛び散った岩の破片が全身を打ち据え、白いローブは所々が破れ、細い足は立っているのが不思議なほどに震えていた。
「どうしたどうした! 逃げ回るばかりではつまらんぞ、魔法使い!」
ヴァンダルが獰猛に笑い、再び大地を粉砕する。巻き起こった衝撃波が、ミーシャの体を木の葉のように吹き飛ばした。
「ぐっ……、あ……!」
泥だらけの地面を転がり、ミーシャは苦鳴を漏らす。
全身の骨が軋み、口の中に鉄の味が広がった。
肉体的な外傷もさることながら、彼女を何より追い詰めていたのは、極限状態での精神的な負荷だった。
リーネ師匠から伝授された最大の切り札、四重螺旋。
それを放つためには、両手で別々の術式を同時に構築するという、常軌を逸した脳の並列処理能力が要求される。
だが、ヴァンダルの放つ圧倒的な殺気と、息つく暇もない猛攻の中では、その数秒の集中すら作ることができなかった。
もし、ここで自分が倒れればどうなる。
この規格外の化け物は、間違いなくアドルたちの元へ向かう。
一万の軍勢を相手にしているアドルやガラハドが、さらにこのヴァンダルの暴力に背後から襲われれば、待っているのは全滅だ。
アドルさんが、あの巨大な戦斧で両断される光景。
ルルが泣き叫びながら踏み潰される光景。
最悪の想像が脳裏を過り、ミーシャの心に黒い絶望が這い上がってくる。
(私が……私がここで止めないと。アドルさんを守らないと……でも、もう、魔力が……)
視界がぼやけ、指先に力が入らない。
立ち上がろうとするミーシャを見下ろし、ヴァンダルはトドメを刺すべく戦斧を高く振り上げた。
◇
その時、戦場の喧騒を縫って、高台にいるイザベラの声が魔力通信で響き渡った。
「ヴァンダル、小娘1人にいつまでかかっているのかしら? 他の状況がよくないわ、遊んでないでさっさと蹴散らしなさい」
シルヴァとフレイムドラゴンの相打ち、そしてアドルによる雷撃で一万の軍勢が崩れかけている状況に、イザベラは明らかに苛立っていた。
「ふん、言われなくとも!」
ヴァンダルが忌々しげに吐き捨てる。
彼の全身の筋肉がさらに異常なほどに隆起し、血管が浮かび上がった。
纏う闘気が赤黒い炎のように立ち昇り、周囲の空間が重圧で歪み始める。遊びは終わりだ。
純粋な殺意の塊となったヴァンダルが、ミーシャを完全に粉砕すべく、巨体を空高く躍らせた。
死が、巨大な影となってミーシャを覆い尽くす。
避けられない。防御魔法も間に合わない。
ミーシャが絶望に目を閉じた、まさにその刹那だった。
◇
「ミーシャ!」
切実な叫びと共に、ミーシャの目の前にひとつの影が飛び込んできた。
アドルだ。
「自然錬成、大気圧断層!」
アドルの両手から放たれた極限圧縮の空気の壁が、ミーシャの頭上に展開される。
直後、ヴァンダルの渾身の一撃が空気の壁に激突した。
凄まじい轟音が響き、断層は一瞬でガラスのように粉々に砕け散ったが、その直撃の威力は完全に殺がれていた。衝撃波だけが二人を吹き飛ばし、アドルはミーシャの体をしっかりと抱きとめたまま、地面を転がった。
「……アドルさん……」
ミーシャが震える声で名前を呼ぶ。
アドルは泥だらけになりながら立ち上がり、ミーシャの背中を支えた。
「遅くなってすまない。もう大丈夫だ」
「でも、あいつは……私の手には負えない。強すぎるわ……」
弱音をこぼすミーシャの頭を、アドルは優しく撫でた。
「一人じゃない。俺がいる。お前が四重螺旋を撃つための隙は、俺が絶対に作り出す」
アドルの力強い瞳を見て、ミーシャの中に渦巻いていた絶望が、嘘のようにスッと消え去っていく。
彼の存在が、枯れかけていた魔力回路に再び熱い火を灯した。
「ちぃっ、小賢しい錬金術師め。まとめて潰してやる!」
ヴァンダルが再び戦斧を構え、重戦車のような勢いで突進してくる。
「ミーシャ、構えろ!」
「ええ!」
ミーシャが両手を前に突き出し、意識を極限まで集中させる。
右手で二重螺旋。左手で二重螺旋。
二つの複雑な魔法の構築が、同時にスタートする。
ヴァンダルがそれを阻止しようと踏み込んだ瞬間、アドルは自らの左腕に直接錬成陣を刻み込み、ヴァンダルに向けて突き出した。
「自然錬成、吸熱連鎖・絶対零度!」
アドルは自身の肉体を熱の避雷針として強制機能させ、ヴァンダルが放つ圧倒的な運動エネルギーと周囲の熱量を、一気に自分の中へと吸い上げた。
「ぐぁああああっ!」
限界を超えた熱量がアドルの左腕に逆流し、皮膚が焼け焦げ、毛細血管が次々と弾け飛ぶ。
激痛にアドルが血を吐くのと引き換えに、ヴァンダルの周囲の空間は瞬間的に絶対零度へと陥った。
血液も、闘気も、鋼の筋肉の繊維すらもが瞬時に凍結し、振り下ろされようとしていたヴァンダルの巨体が空中でピタリと硬直する。
「な、に……っ!? 俺の体が、動か……!」
ヴァンダルが驚愕に目を見開く。極限の闘気で無理やり氷の枷を砕こうと筋肉を膨張させるが、急激に凍てついた筋繊維が内側からメキメキと悲鳴を上げ、その無敵の豪腕は数秒間、完全に停止を余儀なくされた。
アドルの左腕が炭化しかけるほどの代償を払って生み出した、命懸けの枷。
だが、その一瞬。
アドルが命懸けで作ってくれたその数秒があれば、彼女には十分だった。
「天の理、地の理、時の理、空の理……四つの理よ、今ここに交わりて絶対の崩壊を紡げ! 次元を穿つ青き極光――四重螺旋!!!!」
ミーシャの瞳が、抜けるような青に輝く。
彼女の両手から放たれた二つの二重螺旋が、空中で複雑に絡み合い、一つの巨大な極太の魔力奔流となって顕現した。
周囲の空間そのものを削り取りながら進む、青き破壊の光。
「なんだと……!」
氷の枷から抜け出そうとしていたヴァンダルが、初めて恐怖に目を見開いた。
圧倒的な質量を持つ四重の極光が、ヴァンダルの巨体を完全に飲み込む。
「ぐおおおおおおおおっ!!」
大気を揺るがす絶叫。
どんな物理防御も、闘気も、空間ごと消し去るその光の前には無意味だった。
閃光が平野を包み込み、轟音がすべてをかき消す。
光が収まった後。
そこには、巨大な戦斧の残骸と、消し炭となって崩れ落ちる第一の将の姿だけが残されていた。
「……やった、わね。アドルさん」
限界を超えたミーシャが、糸が切れたようにその場に崩れ落ちそうになる。
アドルは痛む左腕をかばいながらも、しっかりと彼女の体を抱き止め、泥だらけの頬を優しく拭った。
「ああ。よく頑張ったな、ミーシャ」
第一の将ヴァンダル、撃破。
王都奪還の戦局は、二人の絆の力によって、決定的な勝利へと傾こうとしていた。




