第182話:剣聖の覚悟と託された背中
出口の光が微かに見え始めた地下排水路に、ズン、ズンという重く不気味な地響きが反響していた。
背後を振り返った俺は、泥水の奥から迫り来る異様な気配に息を呑んだ。
錬金術による科学的な「バグ」で神経を麻痺させ、完全に無力化したはずの知将ゴリアス。
だが、今の彼は元の原型を留めておらず、先程までのインテリジェンスな雰囲気を微塵も残していなかった。
「……おおおおおおぉぉぉっ!!」
ゴリアスは獣のような雄叫びを上げながら、痙攣する腕を強引に反対の腕で掴み、気合と力業だけで無理やりねじ伏せていた。
片眼鏡はすでに砕け散り、知将としての理性を完全に捨て去った狂戦士の顔がそこにあった。
「嘘でしょ……あんな状態から力技で動いてくるなんて!」
ミーシャが顔を青ざめさせ、アルベルトを背中にかばう。
ルルも先ほどの一撃で魔力を使い果たしており、ふらふらと足元をよろめかせた。
俺の魔力も限界に近い。再びあの巨体と正面からぶつかり合えば、今度こそ全滅は免れない。
「走れ! 振り返るな!」
俺はアルベルトの腕を掴み、出口の光を目指して駆け出した。
だが、理性を捨てて本能のままに筋肉を駆動させるゴリアスの速度は、先程よりも遥かに増していた。
「逃がさんぞ……! イザベラ様の命は、絶対だ!」
巨大な拳が、俺たちの背中を完全に捉えた。
死を覚悟したその刹那。
排水路の出口側から、泥水の壁を真っ二つに切り裂くような、凄まじい白銀の剣閃が放たれた。
「――そこまでだ、魔王軍の走狗よ!」
轟音と共にゴリアスの巨体が弾き飛ばされ、濁流の中に大きな水柱が上がった。
俺たちの目の前に降り立ったのは、傷だらけの銀色の鎧を纏い、身の丈ほどもある大剣を構えた男だった。
「ガラハド! なぜここに……! アリア王女の陽動作戦は!?」
驚く俺に、剣士ガラハドは肩で息をしながらも、力強く頼もしい笑みを浮かべて振り返った。
「陽動は仲間たちが命懸けで続けている。私はアリア様から、万が一に備えて殿下の退路を確保せよと密命を受けていたのだ。……どうやら、間に合ったようだな」
ガラハドの視線が、俺の隣で呆然としているアルベルト殿下へと向けられる。
その瞳には、主君の無事を喜ぶ熱い光が宿っていた。
「殿下、ご無事で何よりです。さあ、ここは私にお任せを。アドル殿たちは、一刻も早く拠点へ急がれよ!」
「ガラハド! お前、その傷で残れば死ぬぞ!」
アルベルトが悲痛な叫び声を上げた。
ガラハドの鎧はあちこちがへこみ、激しい戦闘の痕跡が深く刻まれている。
陽動作戦で第一の将ヴァンダルの部隊と激突してきたのは明白だった。
「私の命など、グランレガリアの未来に比べれば安いもの。王家を護ることこそ、このガラハドの本望です」
ガラハドは迷いなく言い切り、再び立ち上がろうとするゴリアスへと剣の切っ先を向けた。
「アドル殿! 殿下を頼む! 我が命に代えても、この怪物はここから一歩も先へは通さん!」
その背中は、どんな防壁魔法よりも大きく、決して揺らぐことのない決意に満ちていた。
「……ガラハド、死ぬなよ。必ず後で迎えに行く」
俺は彼の背中に向かって短く言葉を投げかけ、アルベルトの腕を強く引いた。
「殿下、行きましょう。彼の覚悟を無駄にしてはいけない」
「……っ! ガラハド……!!」
アルベルトは涙を堪えながら、一度だけガラハドの背中を振り返り、俺たちと共に排水路の出口へと駆け出した。
背後から、二つの巨大な力と力が激突するすさまじい轟音が響き渡る。
泥臭い頭脳戦の果てに、俺たちはついに星霜の離宮を突破した。
夜明け前の冷たい風が、下水道を抜けた俺たちの頬を撫でていく。




