第181話:知将の殺意
「……イザベラ様より直々の厳命が下った。何がなんでも、その逃亡者を連れ帰れと」
泥水の中から立ち上がった知将ゴリアスは、先程までの余裕に満ちたインテリジェンスな気配を完全に消し去っていた。
片眼鏡の奥にある瞳には、冷酷で純粋な殺意だけが宿っている。
ゲームのような生ぬるい知恵比べはもうしない。
彼は己の圧倒的な暴力で、確実に俺たちを蹂躙し、アルベルトを奪い返すつもりだ。
「アドルさん、アルベルト殿下は私が守ります!」
ミーシャが即座にアルベルトの前に立ち塞がり、両手を広げた。
「ルルちゃんと二人で、なんとか攻略の糸口をお願いします!」
「わかった、頼む! ルル、行くぞ!」
「了解なの!」
狭い地下排水路。
大きな戦闘音を立てれば、頭上を巡回している敵の援軍が雪崩れ込んでくる危険性が高い。時間をかければかけるほど、非戦闘員であるアルベルトを守りながらの戦いは不利になる。
ゴリアスはその巨体から予想通り、武器を持たない素手での攻撃の構えをとった。岩盤のような分厚い筋肉が、不気味な軋み音を立てて収縮する。
まず矢面に立ったのは、小柄なルルだった。
召喚士である彼女だが、その身体能力と魔力操作は常軌を逸している。
「素手同士なら、負けられないなの!」
ルルが泥水を蹴り上げ、小さな拳を真っ直ぐに突き出す。
ゴリアスもまた、丸太のような右腕を無造作に振り下ろした。
ドゴォォォォンッ!!
大小二つの拳が激突し、凄まじい衝撃波が狭い排水路を駆け抜けた。
壁面の古いレンガがひび割れ、泥水が爆発したように弾け飛ぶ。
「くっ……!」
俺は咄嗟に錬金術で泥水から分厚い土壁を錬成し、アルベルトとミーシャへの衝撃を殺した。
「なんて重さだ……」
ルルは押し負けこそしなかったものの、その小さな足が泥の底に深くメリ込んでいる。
対するゴリアスは、微動だにしていない。
見るからに攻撃力も防御力も桁違いだ。
あの筋肉の鎧には、並の魔法や物理攻撃は通らないだろう。早期決着方法を考えないと、ジリ貧で全滅する。
俺は必死に頭を回転させ、周囲の環境と手持ちのカードを照らし合わせた。
だが、ゴリアスは筋肉だけの単細胞ではない。知将と呼ばれる明晰な頭脳を持っている。
当然、このような状態でルルとだけ正面から対峙し続けるような、時間のかかる愚行はとらなかった。
「ふん。随分と戦いにくそうだな。……守るべき足手まといがいるからか?」
ゴリアスが冷笑を浮かべ、視線をルルから背後のアルベルトへと移した。
その巨体が、一瞬でブレる。
目標はルルではない。
壁を蹴り、天井のアーチを反射板のように使って立体的に跳躍し、直接アルベルトの首を狙い弾丸のように突進してきた。
「ルル、戻れ!」
(マスター、右後方へ跳躍。推力最大で防壁展開の準備を)
すたらんの冷静な指示を受け、ルルが即座に反応してゴリアスとアルベルトの間に割り込む。
同時に、ミーシャが魔導書を開き、何重もの光の盾を展開した。
「させないわっ! 多重空間断層!」
ガァァァァンッ!!
ゴリアスの飛び蹴りが、ミーシャの防御魔法とルルの魔力障壁に激突する。
幾重にも重ねられたはずの絶対防壁が、ガラスが砕けるような音を立てて一枚、また一枚と粉砕されていく。
「きゃあっ……!?」
「うぐぐぐぐ……重いなのぉ……!」
ミーシャが顔を歪め、ルルが歯を食いしばってゴリアスの圧倒的な質量を必死に押し留めている。アルベルトが恐怖で身をすくませていた。
このままでは持たない。
力業で押し切られるのは時間の問題だ。
俺は排水路の汚泥に目を向けた。
ここには、イザベラの魔法やゴリアスの筋肉を凌駕できる、俺だけの「武器」が揃っている。
「ミーシャ、ルル! そのまま持ち堪えろ! 十秒だけ時間をくれ!」
俺は両手を泥水の中に深く沈めた。
排水路の汚泥。
そこには都市の廃物から溶け出した鉄や銅といった金属イオン、そして蓄積された腐敗有機物が溢れている。
俺は錬金術のプロセスを限界まで加速させた。
まず、泥水の中の金属成分を抽出し、導電性を極限まで高めた『流体金属ゲル』を生成する。
次に、下水のカビや腐敗物に含まれる窒素化合物と炭素骨格を分解・再構成し、神経系を麻痺させる速効性の『筋弛緩毒』を合成。
それを、流体金属ゲルの中に分子レベルで封じ込めた。
「ミーシャ、防壁を解除しろ! ルル、全力で右の拳を合わせろ!」
「えっ……でも!」
「信じる、なのっ!」
俺の叫びに、二人が応じる。
ミーシャが光の盾を霧散させた瞬間、ゴリアスの岩のような拳がルルの鼻先へ迫る。
ルルはすたらんの演算に従い、自身の全魔力を右拳に集中させて真っ向から迎え撃った。
「無駄だと言ったはずだ!」
ゴリアスの豪腕がルルを粉砕しようとした、その刹那。
俺は足元の泥水から、錬成したばかりの『電導性毒ゲル』を細い噴流として、ゴリアスの足元から突き上げた。
「これを受けろ……! 錬成、電解伝導の蛇!」
噴流はゴリアスの脚に絡みつき、同時にルルと拳がぶつかった衝撃を利用して、彼の皮膚へと叩きつけられた。
「な、何だこれは……!?」
ゴリアスが驚愕に目を見開く。
導電性の高いゲルが、彼の筋肉が発生させる生体電流と排水路の電位差を利用して、その巨体に「電気的なショート」を引き起こした。
さらに、電流によって開いた毛穴から、合成された筋弛緩剤が血流へと流し込まれる。
物理的なダメージではない。
科学的な「バグ」が彼の肉体を襲った。
ゴリアスの脳が「拳を振り抜け」と命令を出しても、腕の筋肉が電気的ショートで逆に痙攣し、脚の筋肉が毒によって弛緩し始める。
一万手先を読む彼の頭脳。だが、その頭脳が操る「駒」である肉体が、盤面から勝手に滑り落ちるような異常事態。
「ぐ、が……っ!? 筋肉が、私の制御を……拒絶、する……だと!?」
一〇〇パーセントの精度を誇ったゴリアスの突進が、わずかに、だが致命的にブレた。
ルルの放った魔力の一撃が、姿勢を崩したゴリアスの胸元に深々と突き刺さる。
「今なのぉぉぉぉ!!」
衝撃と共に、ゴリアスの巨体が排水路の壁へと叩きつけられた。
「……はぁ、はぁ。今だ、この隙に離宮の結界の外まで走るぞ!」
俺はへたり込むルルと、アルベルトを支えるミーシャを促した。
背後では、ゴリアスが自らの意志に反してピクピクと痙攣する腕を忌々しげに睨みつけていた。
だが、これで終わりではない。
通路の先、地上へと続く出口の光が見え始めたとき、俺たちの耳に不気味な地響きが届いた。
ゴリアスだけじゃない。
王城の地下深くに眠っていた「何か」が、イザベラの魔力に反応して目覚めようとしていた。




