第178話:筋肉の知将
排水路の湿った冷気と鼻を突く悪臭を耐え抜き、俺たちはようやく星霜の離宮の裏庭へと這い上がった。
泥にまみれた外套を脱ぎ捨て、ミーシャが手際よく隠蔽結界を張り直す。
月明かりに照らされた白亜の回廊は静まり返っており、ここが王都の腐敗の象徴であるイザベラの膝元であることを一瞬忘れさせるほどに美しい。
だが、目的地である王子の寝所へと続く重厚な大扉の前に辿り着いた時、その静寂は不自然な威圧感によって塗り替えられた。
扉の前で泰然と腕を組み、行く手を阻むように立ちはだかる巨影。
身長は優に二メートル半を超え、岩石のように隆起した筋肉は、着込んでいる軍服を内側から引き裂かんばかりに膨張している。
「鼠が紛れ込んだと聞いたが、随分と薄汚れた連中だな」
男が口を開いた。
野太い低音とは裏腹に、その鼻梁には知性を感じさせるインテリ風の片眼鏡がキラリと光っている。
俺は即座に複製錬成の構えをとり、ルルは拳を構え、ミーシャはいつでも詠唱できる体勢をとった。
しかし、男は巨大な拳を振るう素振りも見せず、不敵な笑みを浮かべて自らの名を口にした。
「私は魔王軍第二の将イザベラ様が懐刀、知将ゴリアス。諸君、誤解しないでいただきたい。私は筋肉を愛しているが、それ以上に知性を愛する男だ。野蛮な暴力で決着をつけるのは、脳という高度な臓器を放棄した者のすること。私は諸君に、もっと優雅な敗北を与えよう」
ゴリアスが隆起した指先でパチンと音を鳴らすと、俺たちの足元の床が青白い魔力の光に包まれ、巨大な遊戯盤へと変貌した。
「これは絶対ルールの遊戯盤。これより、私が知的遊戯を一つずつ提示する。挑戦は一人一回。誰が挑むかはその都度、そちらで話し合って決めるがいい。三連勝すれば道を開こう。ただし……一度でも敗北、あるいは引き分けとなった場合、諸君には即座にその足元から、元の薄汚れた排水路へと強制お帰り願うことになる」
「なっ、なんですって!? この格好でまたあそこに戻れっていうの!?」
(ミーシャ……そこじゃない、排水路から来たことがバレていたんだ)
ミーシャが悲鳴に近い声を上げたが、ゴリアスの放つ魔力は絶対的な契約の術式を孕んでおり、空間そのものを支配していた。
戦って突破することは不可能だ。
「面白い。受けて立とう」
俺が前に出ると、ゴリアスは満足げに頷き、一回目のゲーム内容を空中に投影した。
「第一の遊戯は『質量看破』。ランダムに生成される物質の重さを目視のみで当ててもらう。さあ、誰が来る?」
俺たち三人は顔を寄せ合った。
「質量なら俺の錬金術の知識が生きる。ここは俺が出る」
「お願いするわ、アドルさん」
俺は盤面の前に立ち、次々と提示される物質の質量を組成計算によって瞬時に割り出し、完璧に言い当ててみせた。
「見事だ。第一の遊戯はクリアとしよう。では第二の遊戯『立体魔力パズル』だ。
「三次元に散らばった魔力の欠片を制限時間内に組み立ててもらう」
「立体パズルなら、空間把握が得意な私の出番ね」
ミーシャが自信ありげに前に出る。彼女は空中に浮かぶ魔力のピースを難なく操り、制限時間よりも遥かに早くパズルを完成させた。
「ほう……王宮魔導師に匹敵する計算速度。クリアだ。では第三の遊戯『魔力リバーシ』。魔力で白黒を裏返すお馴染みの盤上遊戯だ。残る挑戦者は、そこの幼子だな」
「ルルはリバーシ得意なの! 角を取れば勝ちなのよ、楽勝なの!」
ルルが元気よく名乗り出た。盤面は魔力によって構成され、駒を置くたびに鈍い光が弾ける。
ルルは序盤、その直感に任せて次々と角を取り、盤面を自らの白で染め上げていった。
「ふふん、言った通りなの! 筋肉おじさん、意外と弱いの!」
「そう思うか? 子供らしい、短絡的で微笑ましい打ち筋だ」
ゴリアスは片眼鏡の奥で冷徹に盤面を俯瞰していた。
彼は角を取らせることを厭わず、中央の魔力ラインをじわじわと固めていく。
ルルが最後の一手を意気揚々と置こうとしたその瞬間、盤面全体の魔力の流れが連鎖的に逆転した。
「な、何が起きたなの!? あたしの白が、全部真っ黒になっちゃったなの!」
「リバーシの極意は角ではない。相手の心理を読み、相手の思考を誘導することだ。全滅だな」
ゴリアスが指先を床へ向けた。
その瞬間、俺たちの足元に巨大な落とし穴が開き、凄まじい引力に吸い込まれた。
「ぎゃあああああああ!」
凄まじい速度で垂直落下し、俺たちの視界を覆ったのは……再びあのドロドロとした泥水だった。
ドッポォォォン!!
盛大な水しぶきと共に、俺たちは下水ダイブをかました。
鼻を突く悪臭。頭から被った冷たい泥水。
ルルが泣きべそをかき、ミーシャは無言で震えながら、髪に絡まった得体の知れないゴミを投げ捨てている。
俺たちは怒りと屈辱に燃えながら、再び排水路を這い上がり、離宮へと舞い戻った。
◇
「素晴らしい執念だ。では第二ラウンドといこうか。ゲームの内容はリセットされる」
ゴリアスは優雅にプロテインのような液体を揺らしながら、俺たちを待ち構えていた。
再び空中にゲームが投影される。
「第一の遊戯は『属性配列合わせ』だ」
俺たちは再び円陣を組んだ。
「ルル、ここは確実に行きたい。一戦目は俺がやる」
「わかったなの……」
俺は前に出て、それぞれの属性の相関関係を瞬時に解き明かし、これも難なくクリアした。
「よかろう。では第二の遊戯『論理魔方陣の構築』だ。三次元的に組み合わさった複雑な数式を成立させてもらう」
「ルルちゃんにはまだ早い計算式ね。私がやるわ。絶対に言い逃れできない完全な計算で叩き潰してやる!」
怒り心頭のミーシャが盤面の前に進み出た。
彼女は空中に浮かぶ魔力の数字を指先で器用に操っていく。
縦、横、高さ。すべての合計を一致させつつ、中心の核となる魔力値を導き出していく。
「できた! これが正解よ!」
ミーシャが最後の数字をはめ込んだ。
しかし、完成した魔方陣は眩い光を放った後、不気味な赤色に変色した。
「……残念。完璧な計算だったが、君は隠された第三の変数を見落としていたな。この離宮の現在の湿度が、魔力の伝導率に与える影響を計算に入れていなかった」
「なんですって……!? そんなの屁理屈じゃない!」
「いいや、環境を支配するのも知性だ。さらばだ」
パカッ、という無情な音と共に、俺たちは二度目の落下を経験した。
「うわあああああああ!」
ドブン! べちゃっ!
今度は泥水の深さが足りず、俺たちは底のぬかるみに見事に腹這いで着地した。
「あの筋肉インテリ……! 絶対に、絶対に殺してやるわあああああ!」
ミーシャの絶叫が排水路に反響する。もはや服の汚れなど気にする余裕もなかった。俺たちは髪から泥を滴らせながら、鬼のような形相で三度目の離宮へ突入した。
◇
扉の前に現れた俺たちの姿は、もはや救出部隊というよりは地獄から這い上がってきた亡者のそれだった。
ゴリアスですら、その異様な迫力にわずかばかり頬を引きつらせた。
「……ふむ、もはや正気の沙汰ではないな。だが、その執念に敬意を表しよう。第三ラウンドの第一の遊戯は『多重錬成計算』だ」
「俺がやる。さっさと出題しろ」
ドロドロの俺が前に出て、ゴリアスの裏をかく複雑な組成計算を瞬きする間に完遂して勝利した。
「見事。では第二の遊戯『反転空間の座標特定』だ」
「私がやるわ」
泥にまみれ、殺気を放つミーシャが前に出た。
彼女は先ほどの失敗を糧にした超精密な空間把握で、見事に座標を特定し勝利を収めた。
「よかろう……。そして運命の第三の遊戯。究極の盤上遊戯『アビス・チェス』だ。残る挑戦者は、お前しかいないな」
ゴリアスが残されたルルを見下ろす。
アビス・チェスは膨大な駒と複雑怪奇なルールを持つ、知の極致とも言えるゲームだ。
先程の失敗で自信を喪失しているルルには、あまりにも荷が重いように思えた。
ゴリアスが自信満々に巨大なチェスの駒を動かす。
「どうした? 負ければ三度目の入浴だぞ」
ゴリアスが冷酷に告げる。俺もミーシャも絶望し、下水の感触を思い出して身震いした。
(マスター……しっかりしてください。)
その時、ルルの意識の底から、冷徹で、しかし絶対的な知性を湛えた声が響いた。
(……すらたん?)
(マスター。恐怖する必要はありません。ここからは、この私の演算能力をすべてマスターの脳へ同期させます。全魔力を並列計算に回し、秒間一億通りのシミュレーションを、今この瞬間から開始します)
ルルの内側で、スライムのすらたんが覚醒した。
普段はルルの防護膜やナビゲーターを務めるすらたんだが、その本質はルルの莫大な魔力を触媒にして駆動する、生体スーパーコンピューターそのものだった。
ルルの瞳から迷いが消え、代わりに深い藍色の光が宿る。
(マスター、次の手はナイトをE4へ。敵の防御陣を内部から崩壊させる一手です)
(わかったなの……! えいっ!)
ルルが迷いなく駒を指した。その瞬間、ゴリアスの表情から余裕が消えた。
「な、何だこの打ち筋は……!? 無駄が一切ない。私の思考を、遥かに上回る深度で解析しているというのか……!」
ルルの指先は止まらない。
すらたんの提示する最適解を、ルルが淀みなく具現化していく。
ゴリアスの打つ手すべてが、すらたんのシミュレーションの範囲内に収まっていた。
筋肉知将が築き上げた難攻不落の理論が、幼女の皮を被った超演算機の前に、紙細工のように破り捨てられていく。
(マスター、仕上げです。残り三十三手でチェックメイト。敵に一切の逃げ道はありません)
(最後の一手なの! これで終わりなのよぉぉぉ!)
ルルが最後の一手を盤面に叩きつけた。
「……チェックメイトなの!!」
静寂が走った。
盤上の魔力が霧散し、ゴリアスは片眼鏡を地面に落として膝をついた。
「ば、バカな……。この筋肉と、この脳髄を……生涯をかけて鍛え抜いたこの私が……たかだか子供の演算に、完膚なきまでに敗北するなど……」
ゴリアスはあまりのショックに、口から魂のような白い煙を吐き出し、そのまま白目を剥いて横倒しになった。
それと同時に、アルベルトの寝室へと続く巨大な扉が、重い音を立ててゆっくりと、俺たちを歓迎するように開き始めた。
「やったの……やったのぉ! 下水はもうおさらばなの!」
ルルがその場に座り込んで快哉を叫んだ。
俺とミーシャは、抜け殻のようになったマッチョなインテリを跨ぎ越し、ようやく星霜の離宮の最奥へと足を踏み入れた。
闇に包まれた豪華な部屋。
その中央、銀色の天蓋が揺れるベッドに、一人の少年が力なく横たわっているのが見えた。
彼こそが、この国の運命を握る第二王子アルベルトに違いなかった。
俺たちは泥だらけの身体のまま、慎重に彼へと歩み寄った。




