第177話:消えた咆哮
地下排水路の淀んだ空気の中に、どろりとした殺意が混じる。
前方に現れた漆黒の狼は、イザベラの魔力によって編まれた監視用の使い魔だった。
その赤い双眸が俺たちを捉え、喉の奥から城中に響き渡らんとする咆哮を放とうと、大きく顎を割り開く。
マリアの教会のさらに上、石畳一枚隔てた先にはヴァンダルの部下たちが巡回している
。ここで一度でも声を上げられれば、救出作戦は開始数分で破綻し、俺たちは袋の鼠だ。
ルルが恐怖に顔を強張らせ、ミーシャが即座に防壁魔法を手に込める。だが、魔法の衝突音すら今は致命傷になる。
「ミーシャ、異空間保存を起動しろ! 狼の頭部周辺の『空気』だけを指定して、一気に中に放り込め!」
俺は声を殺しながらも、鋭くミーシャに指示を飛ばした。
「えっ……空気、を?」
「いいから早く! 真空を作るんだ!」
俺の意図を瞬時に察したミーシャが、目を見開いて頷く。
彼女が右手を突き出すと、狼の頭を包み込むようにして空間の歪みが展開された。
ミーシャの持つ『異空間保存』は、物質を停滞した空間に収納するスキルだ。
普段はアイテムや食料を保管しているが、その対象は固体に限らない。
俺の錬金術の知識と彼女の空間干渉を組み合わせれば、理論上は特定の範囲内の気体だけを「保存」し、そこを無に帰すことができる。
狼の喉が震え、衝撃波を伴うはずの咆哮が解き放たれた。
だが、何も聞こえない。
狼の口から放たれたはずの音の振動は、それを受け止めて運ぶはずの空気が消失したことで、完全に遮断された。
真空の中では、どれほど絶叫を上げようとも、その波は媒質を失い、一ミリ先へも伝わることはない。
暗闇の中で、狼が苦悶に身を悶えさせる。
突然の気圧の変化と酸素の消失。
魔力で形作られた使い魔とはいえ、その存在を維持するための核は物質的な理に依存している。
肺の中にあった空気までもが強制的に奪い去られ、内側から弾けるような衝撃に狼の影が揺らぐ。
狼は音もなく足掻き、虚空を掻いた。
吠えているはずなのに、世界からはその存在の音が完全に消え去っていた。
「……っ、今だ!」
俺は錬金術で、狼の足元の泥水を瞬時に「氷の鎖」へと錬成し、その全身をがんじがらめに縛り上げる。
空気が無いため、鎖が肉を締める音すら響かない。
「ルル、とどめを! ただし、光を出すな。魔力を直接流し込んで中から霧散させろ!」
「わかったなの……! 悪い子なの、おやすみなさい!」
ルルが震える手を差し出し、狼の額に触れる。
召喚士としての強靭な魔力が、主人であるイザベラの支配を強引に上書きし、狼を構成する術式を根本から解体していく。
数秒の後、漆黒の狼は声なき悲鳴を上げながら、真っ黒な塵となって泥水の中へ溶け落ちた。
静寂が戻る。
頭上の鉄格子の向こうからは、相変わらず兵士たちの呑気な話し声と、重い軍靴の音が聞こえてくる。
彼らはすぐ足元で、自分たちの主人の使い魔が物理法則によってねじ伏せられたことなど、露ほども気づいていない。
「……ふぅ。心臓が止まるかと思ったわよ、アドルさん」
ミーシャが額の汗を拭いながら、異空間の入り口を閉じた。
彼女の肩が激しく上下している。咄嗟の判断で不可視の気体を指定し、隔離し続けるのは、想像以上の精神力を削ったはずだ。
「助かった、ミーシャ。真空なら音は伝わらない。……カミラに教わった王城の知識も大事だが、たまには元の世界の科学知識も役に立つな」
「科学って、あんなに怖いのね。あの子、何が起きたかわからないまま消えちゃったじゃない」
ルルも恐る恐る辺りを確認し、俺の服をぎゅっと掴む。
「でも、これでイザベラに気づかれなかったなの?」
「いや、使い魔が消えた以上、異変には気づくはずだ。だが、今の消滅は『何らかの理由で魔力が霧散した』ようにしか見えないはず。侵入者が音を立てて暴れた形跡はないからな。……急ぐぞ、次の狼が来る前に離宮の直下まで行く」
俺たちは再び、泥にまみれながら排水路の奥へと進み始めた。
さらに数分歩くと、排水路の壁がレンガ造りから、精緻に磨き上げられた白い大理石へと切り替わった。
頭上からは、先程までの無機質な兵士の足音ではなく、微かに優雅な香水の匂いと、静謐な魔力の揺らぎが伝わってくる。
「……ここだ。この真上が『星霜の離宮』の裏庭、アリア王女が教えてくれた隠し入り口の直下だ」
俺は天井に手を当て、錬金術で上の構造を解析した。
土台となる石材の隙間に、緊急時用の昇降用回路が隠されているのを見つける。
「ルル、ミーシャ。ここから先は一歩でも間違えればイザベラの術式に絡め取られる。……準備はいいか?」
二人は無言で、しかし決意の籠もった瞳で頷いた。
俺は錬金術を起動し、音もなく天井の石材をスライドさせる。
冷たく澄んだ夜の空気が、排水路の湿った臭いを押し流すように流れ込んできた。
俺たちは音もなく、星の光が降り注ぐ王城の深奥、星霜の離宮へとその身を踊らせた。
目の前に広がるのは、白亜の柱と色とりどりの花々が咲き乱れる、非現実的なほど美しい庭園。
だが、その美しさの裏側には、侵入者を微塵切りにするための無数の魔力の糸が、張り巡らされていた。
「ようこそ、星霜の離宮へ……か。歓迎されてないのは百も承知だ」
俺は隠蔽結界をさらに強固に張り直し、闇に紛れて、第二王子アルベルトが幽閉されている最奥の寝所へと歩を進めた。




