第170話:王都への飛翔
王都グラン・レガリアへの出発を決めた翌日、屋敷は慌ただしい空気に包まれていた。
今回はシルヴァの背に乗っての長旅になる。上空の冷気や野営に備え、カミラは凄まじい手際で物資を揃えていた。
防寒具、保存食、野営用のテント、各種ポーション。
それら山のようになりかけた荷物は、ミーシャが次々と異空間保存へと飲み込んでいく。
その傍らで、ルルは小さくなったゴーレムの頭を撫でていた。
「グラッキー、あたしたちがいない間、エナちゃんのことしっかりサポートするなのよ!」
「承知した、マスター。このグラキエス、全身全霊をもって主の帰る場所を死守しよう」
グラッキーという可愛らしい愛称で呼ばれながらも、ゴーレムは重々しく頷いた。
一方、カミラは不安げな顔で膨大な引き継ぎ資料を抱え、グラキエスの前に立っていた。
「グラキエス、屋敷の掃除と洗濯の手順、それから商店の在庫管理、領主代行としての決済書類の仕分けですが……」
「案ずるな」
グラキエスはカミラから資料を受け取ると、その石の眼を微かに光らせた。
次の瞬間、彼は複数の腕を土魔法で一時的に形成し、書類の完璧な仕分け、床の掃き掃除、さらには厨房での野菜の仕込みまでを並行してこなし始めた。
一切の無駄がない、精密機械のような手際だった。
「なっ……召喚ゴーレムとは、これほどまでに有能なのですか……?」
カミラは目を丸くして驚愕し、やがて深く息を吐いて安堵の表情を浮かべた。
「これなら、何の心配もなく屋敷を旅立てますわ」
◇
出発前夜。
自室で最終的な装備の確認を終えた俺の部屋を、静かにノックする音があった。
「アドル様……エナです。少し、よろしいでしょうか」
扉を開けると、そこには薄手の寝巻き姿のエナが立っていた。
彼女の白い頬はほんのりと赤く染まり、その瞳には強い決意と、熱を帯びた感情が入り混じっている。
「どうした、エナ。明日は早いからもう休んだほうが……」
「アドル様。……1つだけわがままを、言わせてください」
エナは俺の胸元にそっと顔をうずめ、震える両腕で俺の背中を強く抱きしめた。
「出発前に、一晩だけ……私と、夜を過ごしていただけませんか」
彼女の切実な声が、静かな部屋に響いた。
この屋敷を一人で守るという重圧。
そして、先の見えない戦いへ赴く俺を送り出す不安。
エナはずっと気丈に振る舞っていたが、本当は怖くて寂しくてたまらないのだろう。
海でのあの激しい口づけを思い出し、俺は彼女の細い腰を抱き寄せた。
「わかった。今夜は、朝までずっと一緒にいる」
俺がそう囁くと、エナは涙ぐんだ瞳で微笑み、自分から背伸びをして俺の唇を求めてきた。
エナの甘い香りと柔らかな体温が、俺の理性を優しく溶かしていく。
明日からの過酷な旅を前に、俺たちは互いの存在を深く刻み込むように、静かな部屋で濃密な時間を過ごした。
◇
翌朝。
雲一つない青空の下、屋敷の庭には巨大な銀龍の姿に戻ったシルヴァが鎮座していた。
「いよいよだな」
俺が呟くと、ミーシャが少しだけ寂しそうに笑った。
「鉄のソリ、今回は出番なしね。あれに乗って旅をするのも好きだったんだけど」
「仕方ないさ。今回ばかりは時間が惜しい。シスター・マリアの元へ、一刻も早く急がなきゃならないからな」
あの磁力推進のソリでの旅情も捨てがたいが、空路で直線距離を飛ぶシルヴァの機動力には敵わない。
「エナ、グラキエス。留守を頼む」
「はい! アドル様、カミラさん、ミーシャ様、ルルちゃん……道中、お気をつけて。必ず、無事に帰ってきてくださいね!」
エナが昨夜の熱を少しだけ頬に残しながら、最高の笑顔で手を振った。グラキエスもその隣で深く頭を下げる。
俺、カミラ、ミーシャ、ルルの四人はシルヴァの広い背中に乗り込んだ。
「しっかり掴まっていろよ、お前たち。振り落とされても知らんぞ!」
シルヴァの巨大な翼が力強く羽ばたき、凄まじい突風と共に俺たちの体は天空へと舞い上がった。
眼下に小さくなっていくエナと屋敷に別れを告げ、俺たちは王都グラン・レガリアを目指して一直線に飛翔した。
第四幕 ~完~




