第171話:玉座の闇
最果ての地。
太陽の光すら届かない分厚い暗雲の下、天を突くようにそびえ立つ漆黒の岩山。
その内部をくり抜いて造られた巨大な魔王城の最奥は、呼吸すら困難になるほどの重苦しい魔力と、冷たい沈黙に支配されていた。
広大な玉座の間。
黒曜石で作られた冷たい玉座に深々と腰を下ろしているのは、魔族を統べる絶対的な存在だった。
豪奢な黒い外套を纏い、艶やかな黒髪を後ろに流したその男は、人間と見紛うほどに彫刻のように整った美貌を持っていた。
だが、その深紅の瞳には底知れない闇が渦巻き、周囲の空気をただそれだけで凍りつかせている。
彼こそが、魔王アレン・クロフォード。
「……ゼノとフィアが散ったか」
アレンの静かな声が、冷たい石壁に反響した。
怒りや悲しみというよりは、計算が狂ったことへの不快感が滲む冷徹な響きだった。
「あの二人が融合し、最強の魔人『ゼノア』となってなお、地下迷宮で敗れ去るとはな。異世界からの迷い人……あの小賢しい錬金術師の力、ここに来て無視できないイレギュラーに育ったか」
「忌々しい人間どもめ……! 魔王様、この俺が直々に出向いて、そのアドルとかいう虫ケラを肉塊に変えてやりましょうか!」
玉座の傍らで、大気を震わせるような咆哮が上がった。
声の主は、魔王軍第一の将、ヴァンダル。
身の丈三メートルに迫る規格外の巨躯を、血と煤にまみれた分厚い重鋼の鎧で包んでいる。岩のように隆起した筋肉と、兜の奥でギラギラと光る凶暴な瞳。圧倒的な「物理の力」を象徴する、純粋なる破壊の権化だった。
「まあまあ、落ち着きなさいな、ヴァンダル。あなたのように野蛮に叩き潰すだけでは、人間というものはすぐに新たな反抗の芽を出すのです。国というものは、もっと美しく、内側から腐らせて手に入れるものですわ」
空間が揺らぎ、玉座の前に一枚の巨大な水鏡のような幻影が浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、扇で口元を隠し、艶然と微笑む妖艶な美女。魔王軍第二の将にして、最強の召喚士イザベラだった。
彼女の本体は、この魔王城にはない。
イザベラは二十年前、人間の王都グランレガリアに単身潜り込み、本物の王妃を暗殺。
以来、自らが王妃に成り代わり、今日に至るまで人間の国の中枢に巣食っているのだ。
「イザベラ。王都の具合はどうだ」
アレンが視線を向けると、イザベラの幻影は優雅に一礼した。
「すべて順調ですわ、魔王様。愚かな国王は、完全に私の蠱惑と洗脳の虜。かつての栄華を誇ったグランレガリアは、今や私が糸を引く操り人形の国も同然です」
「……だが、完全ではないのだろう?」
アレンの鋭い指摘に、イザベラの微笑みがわずかに引きつった。
「ええ。国王の脇は固めましたが、一部の目障りな反乱分子どもが、最近になって勢いをつけております。私の支配に抗い、国を取り戻そうとするネズミどもが……」
「四天王の半数を失い、我らが軍の勢力もかつての絶対的なものではなくなった。ゼノアを討ち取った錬金術師の動向も不気味だ。もはや、悠長に内側から腐り落ちるのを待っている時間はない」
アレンは玉座からゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、玉座の間に満ちていた重圧がさらに跳ね上がり、屈強なヴァンダルでさえ一瞬息を詰まらせて片膝をついた。
「計画を早める。これより、グランレガリアの完全制圧へと移行する」
アレンの冷たい視線が、イザベラとヴァンダルを射抜いた。
「イザベラ、お前は王都の内部から、玉座の権力を完全に掌握しろ。反乱の火種となっている王族の残党を完全に孤立させろ」
「御意のままに……。ふふっ、愛しい『家族』たちを、絶望のどん底に突き落としてご覧に入れますわ」
イザベラが歪んだ笑みを浮かべ、幻影がゆらゆらと揺れた。
「そしてヴァンダル。お前は残存する魔王軍の精鋭を率いて、王都へ向かえ」
「おおっ! ついにこの俺の剛腕を振るう時が来ましたか!」
ヴァンダルは歓喜に身を震わせ、巨大な拳を胸当てに打ち付けた。鈍い金属音が玉座の間に鳴り響く。
「イザベラが操る王都の権力と結託し、反乱軍の拠点を物理的にすり潰せ。一人残らずだ。そして、もしその場に例の錬金術師が現れるようなことがあれば……お前の力で、塵ひとつ残さず粉砕しろ」
「承知いたしました、魔王様! このヴァンダルの名にかけて、反乱軍のゴミ共も、異世界のイレギュラーも、等しく絶望の肉海に沈めてご覧に入れましょう!!」
ヴァンダルが血に飢えた獣のような雄叫びを上げた。
水鏡の向こうで、イザベラが残酷な笑声を響かせる。
残された魔王軍の最高戦力が、ついに人間の王都を完全に滅ぼすべく、明確な殺意を持って動き出した。
アレンは玉座の背を撫でながら、暗雲の立ち込める空の彼方、グランレガリアの方角へと冷酷な視線を向けていた。




