第151話 : 虚空の宣告
第四十層の重厚な扉が、重々しい音を立てて開いた。
そこはこれまでの迷宮とは一線を画す、静寂に支配された広大な円形の広間だった。
床一面には鏡のような黒い石が敷き詰められ、天井からは青白い燐光が雪のように降り注いでいる。
「誰もいないの? 不気味なの」
ルルが周囲を警戒しながら足を踏み入れる。
彼女の全身には、エメラルド色のオーラとなったすらたんが薄膜のように纏わりついていた。
俺も複製した短剣を抜き放ち、いつでも動けるよう身を構えた。
シルヴァは槍を低く構え、銀の瞳を鋭く光らせて空間の違和感を探っている。
その時だった。
広間全体が震えるような低い振動と共に、無機質で冷徹な声が頭上から響き渡った。
「エリアギミック発動」
告げられたのは、それだけだった。
具体的な内容は何も語られず、ただ「始まった」という事実だけが重くのしかかる。
「エリアギミック!? 何が起きるんだ!?」
俺の叫びに答える者はいない。
だが、その直後だった。
隣にいたミーシャが、まるですべての力が抜けたかのように、がくりとその場に膝をついた。
「ミーシャ!? どうしたんだ、しっかりしろ!」
俺は咄嗟に彼女の肩を掴もうと手を伸ばした。
だが、それよりも早く、彼女の体から心臓を鷲掴みにされるような、どす黒い負の魔力が噴き出した。
「アドル……さん……逃げ……て……」
ミーシャが絞り出すような声で呟く。
だが、その瞳から瞬く間に光が消えていった。
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳は、底の知れない虚無、そして俺たちへの明確な殺意を宿した深紫色へと染まっていく。
「マスター、離れてください! ミーシャ様の精神波長が完全に書き換えられています!」
ルルの全身を覆うオーラから、すらたんの鋭い警告が響いた。
◇
俺は背筋を走る戦慄に従い、反射的にミーシャから飛び退いた。
直後、彼女が指先を向けた場所から巨大な氷の槍が突き出し、天井を粉砕した。
「ミーシャ、俺だ! 正気に戻れ!」
「ターゲット、確認。……排除を開始」
ミーシャの口から漏れたのは、彼女自身の声でありながら、感情が一切欠落した機械的な呪詛だった。
彼女はゆっくりと宙をなぞる。
それは彼女がいつも、異空間保存を展開し、俺の作った物資を取り出す時の予備動作だった。
「しまっ、ミーシャ! それを開くな!」
俺は必死に意識をミーシャの固有スキルへと飛ばそうとした。
俺の複製錬金で作った無数の武器や魔道具は、すべて彼女の空間に預けてある。
この状況でそこへのリンクが切れれば、俺は身一つで戦場に取り残されることになる。
だが、頭の中に広がるはずの広大な宝物庫は、冷たい鉄格子で閉ざされたように俺の意識を弾き返した。
「嘘だろ……。リンクが、完全に切断されてる……!?」
俺の焦りを嘲笑うかのように、ミーシャの背後に巨大な空間の亀裂が走った。
そこから現れたのは、俺がかつて彼女を守るために最高級の素材を惜しみなく複製して作り上げた、特級の魔導杖だった。
「滅びを」
ミーシャが杖を一振りする。
瞬間、俺たちが三十層で苦しめられたあの反射ギミックを遥かに凌ぐ、絶望的な密度の魔力が炸裂した。
「プロテクション、起動なの!!」
ルルが絶叫し、黄金の盾を展開する。
だが、その盾さえもミーシャが放つ猛攻に悲鳴を上げ、無数のひび割れが走っていく。
「くそっ、異空間保存が使えないなんて……。装備も、回復薬も、全部あの中だぞ……!」
俺は空の手を握りしめた。
目の前に立ちはだかるのは、最強の武器を装備した、俺の最愛のパートナー。
物量を奪われ、仲間を矛に変えられた俺たちを、四十層の冷酷な静寂だけが見下ろしていた。




