第149話 : 執務室の小さな安らぎ
午後の柔らかな日差しが、領主館の重厚な石造りの廊下を照らしている。
俺は一人、エナの執務室へと足を運んでいた。
午前中の休息で身体はほぼ万全に戻っていたが、共に死線を越えた仲間の一人が、今も別の戦場で戦っていることが気にかかっていたからだ。
「……失礼するよ、エナ」
俺が声をかけて扉を開けると、そこには机の上に山積みになった書類の束と、その隙間でペンを動かしているエナの姿があった。
「あ……アドルさん!? もう動いて大丈夫なのですか!?」
エナは驚いて立ち上がり、椅子を鳴らして駆け寄ってきた。
その顔には明らかな疲労の色が浮かんでいるが、瞳には領主代行としての強い意志が宿っている。
「ハイエリクサーのおかげでな。もうスクワットができるくらいにはピンピンしてる。それより、お前の方こそ顔色が悪いぞ。少しは休んでいるのか?」
「私は大丈夫です。街の復興計画に、ギルドからの被害報告……それに避難民の居住区の調整。やることが山積みで、寝ている暇なんてありませんから」
エナは強がって笑うが、その手は微かに震えていた。
俺は無言でポケットから、冷えた瓶を一本取り出し、書類の山のないスペースに置いた。
「とりあえず、五分だけでいい。これを飲んで一息つけ。……お前が倒れたら、この街の復興は止まってしまうんだからな」
「これ……エナジードリンクじゃないですか! 以前の黎明祭で配られて、凄く人気だった……。これ、どこで手に入れたんですか?」
エナが瓶を手に取り、驚きの声を上げる。
俺は少し照れくさそうに鼻を擦った。
「ああ。実はそれ、発案者は俺達なんだ。複製錬金で作った試作の一種でな」
「ええっ!? アドルさんがこれを!? 街中の冒険者が、これを飲むと不思議と力が湧いてくるって噂していた、あの伝説の飲み物の生みの親だったんですか……。まさか、アドルさんの発明だったなんて!」
エナは目を丸くして俺と瓶を交互に見た。驚きで疲れも一瞬吹き飛んだようだ。
「……ふふっ、アドルさんは本当に何でも作ってしまうのですね。いただきます」
エナが蓋を開けて一口飲むと、独特の刺激と甘みが彼女の喉を駆け抜けた。
その瞬間、張り詰めていた緊張がわずかに解け、瞳に活気が戻る。
「……美味しい。アドルさんの優しさが、身体中に染み渡る気がします」
「大げさだ。……でも、少しは顔色が良くなったな。エナ、お前は立派に領主の代行を務めてる。俺は誇りに思うよ」
「……アドルさんにそう言っていただけると、これまでの苦労が報われる気がします」
エナの瞳に、微かな涙が光った。俺はエナの肩にそっと手を置き、力を込めた。
◇
屋敷へ戻った俺を待っていたのは、カミラが広げた数々の古い文献だった。
ミーシャ、ルル、シルヴァも真剣な面持ちでそれを見つめている。
「お帰りなさいませ、ご主人様。エナ様への労い、お疲れ様でしたわ」
カミラが礼儀正しく迎え入れ、一冊の煤けた魔導書を指し示した。
「深層、特に四十層以降で予想される『迷宮の理』について、いくつか可能性を絞り込みました。三十層の反射ギミックは、あくまで力の一部。さらに深層では、戦場そのもののルールを書き換えるような理不尽な仕掛けが予想されますわ」
カミラは「属性の反転」「時間の遅延」「因果の同期」など、過去の文献に記された最悪のパターンを列挙していく。
「……なるほどな。攻撃すれば自分も傷つく、あるいは出した魔法が逆の性質に変わる……。単純な物量や火力では押し切れないパターンが、いくつも考えられるわけだ」
俺は腕を組み、険しい表情で思考を巡らせた。
すると、ルルの肩口からすらたんの声が響く。
「マスター、それら全てのパターンに対応する汎用型の中和デバイスの設計を推奨します。各属性の波長を逆転させる魔道具をアドル様が錬成し、我々が常に展開し続ける構成が最も生存率を高めます」
すらたんは自身の主であるルルに視線を送りながら、冷静に分析を伝える。
ルルも「そうなの! すらたんの言う通り、全部対策しちゃえば怖くないなの!」と、力強く拳を握りしめた。
「ああ。カミラが挙げてくれたパターン、その全てに対処できる『カウンター・アミュレット』を俺が作る。想定できる最悪を、全て潰しておくんだ」
俺は複製錬金の発動準備に入った。
カミラの調査、すらたんの解析、そして俺の技術。
これだけ準備を重ねれば、どんなギミックが来ようとも対応できるはずだ。
「よし。これであらゆる属性反転も、時間のズレも怖くない。四十層、今度こそ完璧な布陣で挑んでやる」
俺の瞳には、揺るぎない自信が宿っていた。
だが、この時の俺たちはまだ知らなかった。
迷宮が用意した本当の絶望が、俺たちが積み上げた「あらゆる想定」の、さらに外側にあることを。




