有閑閑話 『昼行灯電波監視官と農林二号』
七月最後の日曜日。
朝から大豆島は真夏の日差しに包まれていた。
縁側の前では、ニガウリがネットいっぱいに葉を広げ、見事な緑のカーテンになっている。
風が吹くたび葉が揺れ、その隙間には食べ頃の実がいくつもぶら下がっていた。
畑ではナスが艶やかな紫色に実り、農林二号のトマトも真っ赤に熟している。
「おお……」
戸隠弘明は畑を眺め、小さく頷いた。
「ようやく、ここまで来ました。」
そこへ白いスズキ・アルトが家の前へ停まる。
「おはようございまーす!」
島見杏果だった。
「ちゃんと育ってますね!」
「皆さんのおかげです。」
戸隠は珍しく素直に頭を下げる。
「綿内さんと風間さんが止めてくださらなければ、今頃ナス科ばかりの畑でした。」
「それは間違いないですね。」
二人が笑っていると、
「おーい!」
軽トラックから綿内庄吉が降りてきた。
さらに買い物帰りの風間市子も、エコバッグを提げて庭へ入ってくる。
「昨日はお疲れさまでした。今日は収穫祭ですか?」
「ええ。」
戸隠は頷いた。
「皆さんに食べていただきたい料理があります。」
「やっと農林二号に固執した理由が分かるんですね。」
市子が笑う。
「はい。」
戸隠も少しだけ笑みを浮かべた。
◯
台所。
収穫したばかりのナス、農林二号、そしてタマネギが並ぶ。
島見が覗き込む。
「タマネギも入るんですね。」
「ええ。」
戸隠はナスを乱切りにし、タマネギを薄切り、トマトを大きめのくし形に切る。
鍋へ入れて弱火にかける。
タマネギから甘い香りが立ち始め、トマトが崩れ、ナスが柔らかくなる。
戸隠は小さな瓶を取り出した。
「味付けは、これだけです。」
島見が覗き込む。
「コンソメ?」
「はい。」
固形コンソメを砕き、ほんの少しだけ加える。
庄吉が驚く。
「それだけか?」
「祖母は、これしか入れませんでした。」
「採りたて野菜そのものの味を食べる料理だから、と。」
しばらく煮込んだあと、溶き卵を回し入れる。
ふわりと卵が広がる。
火を止めた戸隠は鍋に蓋をした。
「これで終わりではありません。」
「粗熱を取ってから、冷蔵庫でしっかり冷やします。」
「冷やすんですね。」
市子が少し驚いたように言う。
「夏の料理ですし、冷やす事で味が整うんです。」
◯
一時間後。
冷やしていた時間に作ったゴーヤチャンプルとならんで、よく冷えた煮物が食卓へ並ぶ。
島見が一口食べる。
「あっ……。これ、おいしい。」
市子も続いて口へ運ぶ。
「優しい味。コンソメが入ってるのに、前へ出過ぎてないですね。」
庄吉も頷く。
「野菜の味がちゃんと分かる。」
戸隠も静かに箸を取った。
一口。
二口。
ゆっくり噛み締める。
そして、小さく笑った。
「……やっと、この味です。」
島見が尋ねる。
「何度も作ってたって言ってましたよね?」
「ええ。」
戸隠は器を見つめたまま答えた。
「実は何度も挑戦していました。」
「でも、そのたびに祖母の味にならなかった。」
「原因は?」
「トマトです。」
農林二号を箸で持ち上げる。
「今、市場へ行くと、ほとんどが桃太郎のような甘いトマトです。」
「そのトマトで作ると、甘みが強い料理になる。」
「しかし…酸味と甘み。そして旨味が調和した祖母の味にはならない。」
市子が頷く。
「だから昔ながらの農林二号だったんですね。」
「はい。」
「昔ながらの酸味が必要だったんです。」
戸隠は少し遠くを見るような目になった。
「実家は父も母も共働きでした。」
「弟と私の面倒は、ほとんど祖母が見てくれていました。」
「この時期になると、この料理がよく食卓に並んだんです。」
庄吉も静かに聞いている。
「子どもの頃は好きじゃありませんでした。」
「煮崩れたトマト。」
「柔らかいナス。」
「冷たい煮物。」
苦笑する。
「子どもには、少し癖のある料理でした。」
島見も笑う。
「確かに、小さい頃は苦手かもしれません。」
「でも。」
戸隠はゆっくり続けた。
「歳を取ると、不思議ですね。」
「急に、この料理が食べたくなる。」
「祖母は役所に入る受験勉強を始める前になくなりましてね…。日々の業務に埋もれてきたら、なおさらでした。」
「そして、何度も作ったんです。」
「でも違う。」
「レシピは覚えているのに。」
器の中のトマトを見つめる。
「ようやく分かりました。」
「違っていたのは、作り方じゃなくて、トマトだったんです。採りたての甘熟した農林二号を使っていた…と。」
市子が微笑んだ。
「今日は、おばあさまも合格をくれそうですね。」
戸隠は少し照れくさそうに笑う。
「そうだと、うれしいですね。」
◯
夕方。
ニガウリの緑のカーテンが西日を遮る縁側。
庄吉と戸隠はビール。
市子も今日は缶ビールを開けた。
島見だけは、いつもの無糖ストレートティーで乾杯する。
「しかし。」
庄吉が笑う。
「二か月前はナス科ばっか植えようとしてた奴とは思えんな。」
「私も学習しました。」
戸隠は真顔で答える。
「来年は連作障害を避けるため、ちゃんと場所を変えます。」
「それでよし。」
庄吉が満足そうに頷く。
島見が笑う。
「昼行灯でも、ちゃんと経験値は入るんですね。」
四人の笑い声が縁側に響く。
戸隠はビールを一口飲み、夕日に染まる畑を見つめた。
「祖母は、『畑で採れた野菜は、そのまま料理すると一番うまい』と言っていました。」
少し目を細める。
「子どもの頃は意味が分かりませんでした。」
「でも今なら分かります。」
「味だけじゃない。」
「この料理を食べると、台所に立つ祖母の姿や、隣で宿題をしていた弟、仕事から帰ってくる両親まで、一緒に思い出せるんです。」
市子は静かに頷き、島見も何も言わずに微笑んだ。
夕暮れの大豆島。
緑のカーテンが風に揺れ、畑の農林二号が赤く輝いていた。




