有閑閑話 『昼行灯電波監視官と家庭菜園』
五月の土曜日。
長野市大豆島は朝からよく晴れていた。
田植えを終えたばかりの田んぼには水が張られ、風が吹くたび空が揺れる。
――ケロケロケロケロ。
カエルの大合唱の中、戸隠弘明は庭の畑スペースを前に腕を組んでいた。
去年のゴールデンウィークに、この家へ引っ越してきた。
風間市子の父親が住んでいた、庭付きの古い平屋。
仕事に追われて最初の一年はろくに庭を触れなかったが、今年は違う。
「……今年はちゃんとやります」
その時。
「戸隠さん」
後ろから声が飛んだ。
振り向くと、風間市子が『デリシャス』の買い物袋を提げて立っている。
「また家庭菜園ですか?」
「ええ。今年は計画があります」
「その言い方がもう不安なんですが」
戸隠はスマートフォンを見せた。
「まず、ナス」
「はい」
「トマト」
「はい」
「ジャガイモ」
「……はい?」
「この三本柱で行こうかと」
市子は数秒黙った。
「戸隠さん」
「なんでしょう」
「それ、全部ナス科です」
沈黙。
「……そうなんですか?」
「知らなかったんですか」
「ジャガイモもですか」
「そうです」
「トマトも?」
「そうです」
戸隠は少し考え込んだ。
「意外と近縁なんですね」
「そこ感心するところじゃないです」
そこへ。
「おぉーい!」
軽トラが家の前に止まった。
降りてきたのは綿内のジイさんこと綿内庄吉。
七十八歳。 頼まれてもいないのに近所の畑事情へ介入する男である。
「今年は畑やるだか!」
「ええ」
「何植える?」
「ナス、トマト、ジャガイモです」
「ダメだ!」
即答だった。
庄吉はずかずか庭へ入ってくる。
「全部ナス科だ!」
「今ちょうど聞きました」
「病気出たらまとめてやられるぞ!」
「なるほど」
「あと去年ナス植えただろ!」
「植えましたね」
「連作障害!」
「そんなに深刻なんですか」
「人間で言えば過労だ!」
「分かりやすいですね」
戸隠は妙に納得した顔をした。
庄吉はさらに腕を組む。
「で、トマト何植える気だ?」
「農林二号です」
庄吉は露骨に嫌な顔をした。
「また……青臭く酸っぱいヤツを……」
「桃太郎じゃないんですね」
市子も呆れ半分で言う。
「今どき珍しいですよ」
「ええ」
戸隠は短く頷いた。
「理由がありまして」
「なんです?」
「……まあ、そのうち」
珍しく、それ以上は言わなかった。
庄吉がため息をつく。
「絶対なんか変なこだわりあるだろ……」
戸隠は少し考えた。
「……では修正します」
「おっ」
「トマトとナスは残します」
「そこは固定なんだ」
「ジャガイモを外して」
「うん」
「ゴーヤとキュウリ」
「増えた」
「あとネギで」
庄吉が額を押さえた。
「ゴーヤは広がるぞ!だから、縁側の近くに植えて日除け代わりにしろ!」
「なるほど…」
「キュウリもウリ科だ!」
「なるほど」
「ゴーヤとは離せ!」
「それは理解しました」
珍しく戸隠が素直だった。
するとその時。
ブロロロ……。
白いスズキ・アルトが家の前に停まった。
窓から島見杏果が顔を出す。
「おはようございまーす!」
「……なんで来たんですか」
「戸隠さんが畑始めるって聞いたんで、様子見です」
島見は庭を見るなり状況を察した。
「あー、もう農業指導入ってる」
「農業、難しいですね」
「戸隠さん何植えようとしてたんです?」
「ナス、トマト、ジャガイモです」
「あっ、それ危ないやつだ」
「そんなにですか」
「しかも農林二号?」
「知ってるんですか」
「祖父が好きでした。酸っぱいって言ってましたけど」
「ほら見ろ!」
庄吉が嬉しそうに指差す。
島見は笑った。
「でも今どき珍しいですよね」
「ええ。だからです」
「だから?」
「……まあ、そのうち分かります」
「気になる言い方!」
◯
一時間後。
なぜか作業の主導権は完全に奪われていた。
「戸隠さん、トマトはそこ!」
「はい」
「ゴーヤ用ネット立てる!」
「はい」
「キュウリ近い!」
「修正します」
「今日は妙に従順ですね……」
島見が怪訝そうに言う。
戸隠はスコップを持ったまま答えた。
「専門家の意見は尊重します」
「電波監視の現場みたいなこと言わないでください」
市子が麦茶を持ってくる。
「はい休憩」
縁側に座ると、田んぼを渡る風が抜けた。
カエル。 草刈機。 遠くの軽トラ。
初夏の音だった。
◯
夕方。
結局、
ナス
トマト(農林二号)
ゴーヤ
キュウリ
ネギ
が、それぞれ適切な距離を取って植えられた。
「終わったぁー!」
島見が縁側へ座り込む。
庄吉は七輪を持ってきた。
「飲むぞ!」
網の上に置かれる、くさや。
「うわっ、臭っ!」
島見が顔をしかめる。
「いい匂いでしょう」
戸隠は真顔だった。
「毎回思うんですけど、その感覚だけは理解できません」
夕暮れの風が吹き抜ける。
田んぼ。 赤い空。 カエルの大合唱。
市子と庄吉がビールを開ける。
「いやぁ、働いた後はうまい!」
「ですねぇ」
戸隠も迷わず缶ビールを取った。
「今日は飲みますよ」
「戸隠さん普通に酒豪ですもんね」
島見が呆れたように言う。
「本省時代に鍛えられました」
「絶対大変だったやつだ……」
戸隠はくさやをつつきながらビールを飲む。
整えられた畑。 風に揺れる苗。
「……まあ」
「?」
「悪くないですね。こういう土曜日も」
島見は紅茶の缶を開けながら笑った。
「そのうち“農林二号じゃなきゃダメなんです”って語り出しそうですけどね」
戸隠は少しだけ笑った。
「……その時は、収穫できたら話します」
庄吉が即座に言う。
「まず水やり忘れんなよ!」
戸隠はビールを飲みながら静かに視線を逸らした。
島見が吹き出す。
「あ、そこは否定しないんだ……」




