イングベルト・F・クレイルシルトという人
イングベルト・F・クレイルシルトという人物は、この国ではかなりの有名人だ。
この国の身分制度における貴族というものは、あくまでも爵位を所持しているもののみとされている。つまり、継承順位がどうであっても、貴族家の子どもは制度上平民となる。
とはいえ制度上の話であり、貴族家に生まれた子どもが、平民の家に生まれた子どもと同じ扱いをされることはない。
加えて、いずれ爵位を継承する嫡子は、公式行事への同席や貴族の私的行事における当主名代を務めることもあり、その立場は成人後もほとんど貴族と大差がない。
けれど、継承順位の低い子息については話が別だ。第二位あたりであれば、嫡子に不幸があった場合の代替として家に残ることはあるけれど、それ以外の子息は、大抵が嫡子の爵位継承か結婚を機に家を出て独立することになる。
独立後は名実ともに平民となるため、自らの才覚で生活の糧を得なくてはならなくなる。
まあ実際は、独立しても家からの援助は受けられるし、そのコネを使って名誉職のような働き口を得ることもできるから、路頭に迷うことはそうそうないのだけれど。
ただ、それを良しとしないものや先を見ているものの中には、独立までの間に知やら武やらに磨きを掛けて、家の力は使わず、本当の意味で独立するものもそれなりに存在する。
イングベルト様もその口で、成人と見做される十五になると同時、援助を全て断った上で家を出たという。
それから一年ほどを掛けて国内を放浪。三年に一度開催される、王室主催の武術大会の開催に合わせて王都へ戻ると、これに優勝し、その功をもって騎士爵を授爵される。
簡単に優勝しているように聞こえるけれど、最終的には天覧試合まで行われるこの大会は、その格式の高さに反して身分に関係なく参加できることから、国中から腕に自信のあるものがこぞって参加するもので、勝ち抜くためには相当の実力を要すると言われている。
長い歴史の中、貴族の出で、ましてや成人間もない青年が優勝したのは数えるほどしかなく、例外なく偉大な武芸者としてその名を遺している。
イングベルト様もその例に漏れず、受爵後に騎士として一隊を預かると、魔獣や匪賊征伐で功を挙げ、王都で知らないものはないとまで言われているほどだ。
王都から少し離れた町や村などでも、イングベルト様が数人の手勢だけで十倍以上の匪賊を退治したなんて噂が流されるくらいの人気ぶりらしい。
そんな、英雄譚の登場人物のような話をエグバートさんから聞かされた私としては、初対面を楽しみにしていたのだ。
楽しみにしていたのだよ?
けれど。
「女性は、四十路を越えてこそ魅力的になると思わないかい?」
当の本人は私に向けて、穏やかな笑みを浮かべながら、自らの女性の好みについて熱く語ってくれていた。
「えと……、そう、ですね? 年齢を重ねることで深まる魅力とか、ありますよね」
うん。人の趣味嗜好にどうこう言うつもりはないけれど、結婚年齢の低そうなこの世界で、その好みは結構な異端なのでは。
「そうそう。特に子を成した女性なんて、母性というのかな? 素晴らしいものがあるね」
おっと、さらにレベルの高い話になってきた。まさか、この考え方がスタンダードなのだろうか。
それともやはり、貴族社会で生きていくと、倒錯した性癖になってしまうのだろうか。
いずれにしても、八歳女児と話す内容ではないと思いますが、どうか。
さて何でこんな話になっているのだっけ、と思い返してみる。
◇◆◇◆◇◆
三、四時間程度のお出掛けだったのに、何だかイベント盛りだくさんだったなぁ、などと考えながら、商業ギルドからの帰路に就いた私。
フードを被って周囲を気にしながら壁を乗り越え、貴族邸に侵入するという、通報されてもおかしくない(というか、間違いなく通報される)姿を晒しつつ、無事に自室へ戻ったのが小一時間前。
何やかんやと動き回ったせいで減ったお腹を抱えながら、今後の身の振り方を改めて考えていたところで、エグバートさんからイングベルト様が戻ったことを伝えられたのだった。
間もなくの夕食の席で顔を合わせることになるとはいえ、まさかそこで御挨拶というわけにも行かず、すぐに執務室へあいさつに訪れたのだけれど。
私と顔を合わせたイングベルト様は、あいさつもそこそこにこう切り出してきたのだ。
「いや、それにしても、リリは随分と可愛らしく成長したね。義兄として鼻が高いよ」
「はい? あ、えー……ありがとう、ございます?」
「これは社交界に出たら、結婚の申し込みがたくさん来て、父上が困ってしまうかもしれないね」
え、何いきなり。久し振りに言葉を交わすのに、結婚の話?
それに、結婚の申し込みがたくさん来るなら、家としては歓迎なのでは……あ、いや。
「それは、その……ひょっとして、私にはどなたか決められた方がいらっしゃるのでしょうか?」
「うん? いや、聞いたことはないね」
あれ? 歴史ある領地持ちの家と縁を結べるなら、相手が物言えぬ子どもでも、むしろその方が良いとさえ考える家もありそうだけれど。
「リリぐらいの年の子なら、決められた婚約者よりも、白馬に乗った王子様に巡り会いたいと思うのかな?」
物語じゃあるまいし、と思うものの、白馬の王子様の資格十分な人物を目の前にしているとちょっともやっとする。
そもそも、身分差のはっきりしているこの世界では王子様的な人との運命的な出会いなんて、憧れの対象となるのだろうか。
いや、逆に言えば、クレイルシルト家の家格があれば、本物の王子様と云々というのも、あながち非現実的なものではないのかもしれない。
いずれにせよ。
「結婚と言われても、あまり実感がありません」
けれど、改めて考えるとこれは由々しき問題だ。
貴族の令嬢ともなれば、政略結婚なんて当たり前だろうし、このまま大人しくしていては、いずれ結婚を迫られるのではないか。
相手は当然のごとく男性だろうけれど、精神的性別を重視したい私としては、精神的同性婚は避けたい。
「それもそうか。父上は兄上と結婚させたいと考えていたみたいだけど」
「え……それはさすがに……。養子とはいえ、兄と妹なわけですし」
「実兄妹ならともかく、従兄妹同士の結婚なんて珍しくもないだろう?」
そうか、この世界では近親婚がタブー視されていないのか。むしろ、血統を重視するなら、推奨さえされているかもしれない。
「実は、君の立場は結構難しい。父上が領主の立場に就いた時点で、継承順は兄上が一位になって君は一番下になった。ただまあ、建前とはいえ父上も、君が快癒したら領主を継がせると発言しているからね。下手な家に嫁がれると、それを理由に要らぬちょっかいを掛けられるかもしれない」
確かにそれは考えられる。少なくとも、それなりの発言力を得られてしまうこととなるだろう。
「そうすると、次期当主である兄上とくっつけてしまうのが、一番丸く収まるというわけだ」
「はぁ……確かに、面倒も少なそうに聞こえますね……」
私の意志が、まるっと無視されているというところに目をつぶれば、だけれど。
「ただ、これもちょっと雲行きが怪しい。どうも最近、兄上が御執心になっている相手がいるみたいでね。もしうまく行くなら、家にとっても良い相手みたいだから、父上も反対はし辛いようだし」
「祝福されて好いた相手と一緒になれるなら、それは素晴らしいことですし、上手くいくと良いですね」
「でもそれが上手くいくと、リリに残されるのは、結婚もせず何処かの邸でひっそりと暮らす、という道になるけど?」
「そうかもしれませんが……というか、クレイルシルト家の方ということでしたら、イングベルト様でも良いのでは?」
いや、もちろん結婚したいわけではない。見目良いのも、将来性抜群なのも認めるけれど。
「それはそれで兄上が良しとしないさ。そうでなくても、今の私の立場を面白くは思っていないからね。長子継承が原則とはいえ、君と私が一緒になったら、次期当主が私になるのかもしれないと思われるかもしれないだろう? それに……」
イングベルト様は、そこで一旦言葉を切ると、少し痛ましそうな表情を浮かべる。
「リリのことは、妹……というか娘ぐらいにしか見えないんだ。すまないね、私の好みはもう少し女性らしい人なんだよ」
いや、謝られることではないし。何だか、私が振られたみたいに聞こえるじゃないか。
むしろ、イングベルト様の好みが普通で、ありがたいぐらいだ。
なんて思った直後、ちょっと斜め上の年上趣味をカミングアウトされることになったのだけれど。
◇◆◇◆◇◆
「……その、話を戻しますけれど。結局のところ、私に継承権があるのが問題になるなら、それを放棄してしまうのが一番丸く収まるの方法なのではないでしょうか?」
出来るかどうかは分からないけれど。
最悪、出奔という手段もある。
「随分と簡単に言うね? 本来なら君が継ぐはずだったもので、君にとっては横から掠め取られたようなものだろう?」
「それは、まあ、思うところがないわけでもありませんが……だからと言って、私に領地の運営がうまくできるとも思いませんし」
昔の知識は多少なりとも持っているけれど、それだけで回せるほど甘くはないだろう。
「リリなら、何だかんだで熟してしまいそうな気もするけど……そもそも自分で全てをやる必要はないよ?」
「そんな人に心当たりはありませんし……あ、イングベルト様にお任せできるなら良いかもしれませんね」
イングベルト様なら、経験がなくても完璧にやってしまいそうだ。任せるなら最適な人ではないだろうか。
なんて、本人にその気はなさそうだったので言ってみただけの、ほんの冗談だったのだけれど。
「そうかい? なら、それで行ってみようじゃないか」
「はい?」
イングベルト様は、それまでの笑みを引っ込めると、
「私と協力して、クレイルシルトの領地をその手に取り戻してみようか?」
そんな、予想外の提案をしてきたのだった。




