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第六話 パーティーを解消した魔王少女が、友達を救うため魔王に戻った


 澪とのパーティーを解消した翌朝。


 俺は三十三人の女性から交際を申し込まれていた。


『動画を見ました。真剣にお付き合いしたいです』


『無職でも構いません。私が養います』


『魔王より私を選びませんか?』


 どれも魅力的な提案である。


 昨日までの俺なら、全員へ丁寧に返信していた。


 だが。


「……面倒だな」


 スマートフォンをベッドへ放り投げる。


 通知音が鳴る。


 無視する。


 また鳴る。


 さらに三回続けて鳴った。


「宅配便よりしつこいな」


 画面を見ると、火神朱音からの映像通話だった。


 出た瞬間、画面いっぱいに朱音の顔が映る。


『トーヤっち、澪ちと別れたってマジ!?』


「朝から声が大きい」


『マジなの!?』


「付き合ってない」


『付き合ってないのに別れたの? 逆に高度じゃん』


「パーティーを解消しただけだ」


『それを別れたって言うんじゃん』


「言わない」


 朱音の背後には、白い壁と探索者協会の紋章が見える。


 どうやら、どこかのダンジョン管理施設にいるらしい。


『何したの?』


「何も」


『男がそう言うときは、大体何かしてる』


「俺は澪を守った」


『それ、澪ちも同じこと言ってた』


「なら問題ないだろ」


『勝手に守られて、勝手に秘密にされて、勝手に人生を決められたって』


「……言い方に悪意があるな」


『事実じゃん』


 否定できなかった。


 俺は澪がアルミレアの転生体だと知りながら、黙っていた。


 彼女を殺した理由も、今なお隠している。


 真実を伝えれば、澪は自分を責める。


 だから言わない。


 そう決めた。


 澪の意思を、一度も聞かないまま。


『トーヤっちさ』


「何だ」


『守るって、相手を蚊帳の外にすることじゃなくね?』


「……十九歳に説教されるとは思わなかった」


『十九歳を口説いてた奴が言う?』


「それとこれは別だ」


『別じゃないっしょ』


 画面の向こうで、誰かが朱音を呼んだ。


 聞き覚えのある声。


「澪か?」


『そうだけど』


「近くにいるのか?」


『今から澪ちの適性検査。うちも記録係で付き添うんだ』


「適性検査?」


『魔物が本当に澪ちへ従うのかとか、能力が暴走しないかとか。あと――』


 朱音が声を落とす。


『トーヤっちがいなくても、探索者を続けられるって証明するため』


「そうか」


『気にならない?』


「本人が決めたことだ」


『ふーん』


「何だよ」


『別に。もうちょい寂しそうな顔するかと思っただけ』


「寂しそうに見えるか?」


『めっちゃ見える』


「寝起きだからだ」


『はいはい』


 また誰かが朱音を呼ぶ。


『じゃ、切るね。あとは高嶺さんから』


 通話が終了する。


 直後、探索者協会の暗号化された配信ページが送られてきた。


《東京第七ダンジョン・魔王因子適性検査》


《関係者限定映像》


《監督責任者――高嶺静香》


 俺も異常転移の関係者だ。


 澪と距離を置くことには同意したが、協会としては俺の知識を完全に手放すわけにもいかないらしい。


 映像を開く。


 東京第七ダンジョン、地下二階。


 安全確保のため、一般探索者は退去させられている。


 石造りの広間に、澪が立っていた。


 昨日と同じ黒い探索者装備。


 長い髪を高い位置で結び、新しい短剣を腰へ下げている。


 画面越しでも、表情が硬いと分かった。


『体調に異常はありませんか?』


 静香の声。


『ありません』


『少しでも記憶の混乱や能力の暴走を感じた場合、検査は中止します』


『分かりました』


『葛城さんは同行していません』


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、澪の視線が揺れた。


『……当然です』


『今回の検査は、あなた自身の意思で中止できます。誰かに証明する必要もありません』


『いいえ。必要です』


 澪が短剣の柄を握る。


『私が夜凪澪として、これからも探索者を続けられる。そのことを、私自身が知りたいんです』


 静香が小さく頷いた。


『検査を開始します』


 広間の奥にある扉が開く。


 現れたのは、赤褐色の甲殻に覆われた四体の魔物。


《鎧殻蜥蜴》。


 Eランク相当。


 動きは遅いが、正面から短剣で甲殻を貫くのは難しい。


「最初から四体か」


 思わず口に出る。


 澪には聞こえない。


 鎧殻蜥蜴が散開した。


 一体が正面から走り、残る三体が左右へ回り込む。


 澪の脚を青い風が包んだ。


『《疾風脚》』


 姿が消える。


 一体目の横を抜け、その背後へ回る。


 だが、短剣を振るう直前、澪の右肩が上がった。


「力みすぎだ」


 刃が甲殻に弾かれる。


 澪が体勢を崩す。


 右側から、二体目の尾が迫った。


「目で追うな」


 澪が目を閉じる。


『目で追うな。気配を感じろ』


 以前、俺が教えた言葉。


 それを思い出したように、澪の身体が沈んだ。


 尾が髪の上を通過する。


 回避と同時に《疾風脚》を解除。


『《黒鎧》!』


 黒い外殻が両腕を覆う。


 澪は二体目の顎を拳で打ち上げ、その柔らかい喉へ短剣を突き刺した。


 一体目。


 続けて、背後から飛びかかった個体を黒鎧で受け止める。


 その身体を投げ飛ばし、腹部を切り裂く。


 二体目。


「切り替えが遅い。次が来るぞ」


 俺の声は届かない。


 それでも澪は、左から迫っていた三体目を見ずにかわした。


『移動の直後に能力を切り替えろ』


 また、俺の言葉を思い出している。


 青い風。


 黒い鎧。


 二つの能力を交互に切り替え、澪が魔物たちの間を駆け抜ける。


 短剣が急所を貫く。


 三体目が倒れた。


 最後の鎧殻蜥蜴が、口を大きく開く。


 喉の奥に、赤い光が集まった。


 火炎弾。


 澪は避けなかった。


 右腕の黒鎧だけを解除し、左腕へ魔力を集中させる。


 外殻が分厚く広がった。


「部分強化まで覚えたのか」


 火炎弾が直撃。


 爆発が巻き起こる。


『澪ち!』


 朱音の声が響く。


 炎の中から、黒い影が飛び出した。


 澪だ。


 左腕の黒鎧には亀裂が走っている。


 だが、本人は無傷。


 青い風をまとった右足を、鎧殻蜥蜴の側頭部へ叩き込む。


 甲殻が砕けた。


 その隙間へ短剣を差し込む。


 最後の魔物が倒れた。


 澪は荒い呼吸を繰り返しながら、立ち尽くす。


「……八十二点」


 前回より七点高い。


 能力の切り替えも、魔力の配分も良くなっている。


 左腕へ黒鎧を集中させた判断は、教えた覚えがない。


 自分で考えたのだろう。


『やったじゃん、澪ち!』


 朱音が駆け寄る。


『いえ。最初の攻撃で肩に力が入りました。それに、能力の切り替えも一度遅れています』


『誰かさんみたいな採点するようになってない?』


『事実を確認しただけです』


『トーヤっちなら何点って言うかな』


『知りません』


 一拍置いて、澪が小さく付け加える。


『……八十点くらいではないでしょうか』


 近い。


 少しだけ口元が緩んだ。


 俺は画面へ手を伸ばしかける。


 けれど、そこに澪はいない。


 戦いを終えた彼女の頭を撫でることも。


「よくやった」と伝えることもできない。


 昨日までは、すぐ隣にいた。


 たった一日離れただけなのに。


 画面の向こうが、異世界より遠く感じた。


『魔石を回収します』


 澪が一番大きな魔石へ近づく。


『吸収しないの?』


『検査中ですから。勝手なことはできません』


『真面目だねー』


『普通です』


 澪が屈み、魔石を拾おうとした。


 そのとき。


 倒れていた鎧殻蜥蜴の身体が動いた。


「澪!」


 叫ぶ。


 届かない。


 魔物は立ち上がらなかった。


 前脚を折り、頭を床へつける。


 残る三体も同じだった。


 死んだはずの魔物たちが、澪を囲むように伏していく。


『……また』


 澪の手が止まった。


『夜凪さん、離れてください』


 静香が剣を抜く。


 朱音も炎を両拳へまとわせ、澪の横へ並んだ。


 広間の中央へ、黒い霧が集まる。


 霧が人の形を取った。


 漆黒の甲冑。


 黒い大剣。


 翼と月を組み合わせた紋章。


「冥黒騎士……」


『お迎えに上がりました、陛下』


 低い声が、端末の向こうから響いた。


『私は、あなたの陛下ではありません』


『いいえ。御身こそ、我らが唯一の主』


『帰ってください』


『勇者が、何も語らなかったとしても?』


 澪の表情が固まる。


 冥黒騎士の兜の奥で、紫色の光が揺れた。


『御身を殺した理由も』


『やめてください』


『愛を囁きながら、その胸へ聖剣を突き立てた理由も』


『やめろ!』


 俺の声が、誰もいない部屋に響く。


 当然、届かない。


『すべてを、お知りになりたくはありませんか』


 黒い霧が広がり、巨大な門を形作る。


 門の向こうに見えたのは、暗い城内。


 黒曜石の床。


 天井から下がる紫色の炎。


 見覚えがある。


 アルミレアの城。


 俺が最後に彼女と戦った場所だった。


『この先に、御身の失われた記憶がございます』


『夜凪さん。耳を貸してはいけません』


 静香が澪の前へ出る。


『その存在の目的は、あなたの人格をアルミレアへ戻すことです』


『戻すのではございません』


 冥黒騎士が答える。


『偽りの器に封じられた真なる御心を、解放するのです』


『夜凪澪は、偽物だと言うんですか』


『御意』


 澪の瞳から、迷いが消えた。


『それなら、あなたを信用することはできません』


『陛下』


『私は過去を知りたい。ですが、夜凪澪として生きた十七年間を、偽物にするつもりもありません』


 澪が短剣を構える。


『帰ってください。次に無理やり近づけば、敵と判断します』


 正しい判断だ。


 真実を知りたいという願いと、目の前の相手を信用することは別。


 澪は怒りに流されていない。


 冥黒騎士が立ち上がる。


『残念にございます』


 大剣を、床から引き抜いた。


『ならば、陛下を偽りの生へ縛りつける者どもを排除いたしましょう』


「逃げろ!」


 黒い大剣が振るわれる。


 剣先は、誰にも触れていない。


 それでも広間を横断する黒い斬撃が放たれた。


『全員、防御!』


 静香が前へ出る。


 剣へ青白い魔力を集中させ、斬撃を受け止めた。


 衝突。


 次の瞬間、静香の剣が砕けた。


『――っ!』


 黒い斬撃が身体を捉える。


 静香は後方へ吹き飛ばされ、岩壁へ激突した。


『高嶺さん!』


 澪が駆け寄ろうとする。


 その周囲へ、協会の調査員たちが展開した。


『対象をSランク敵性存在と認定!』


『夜凪さんを守れ!』


 銃弾と魔術が一斉に放たれる。


 冥黒騎士は動かない。


 すべての攻撃が、その直前で静止した。


『人の身で、陛下へ近づくことを許された。それだけの分際で』


 紫色の光が鋭くなる。


『我が主を、人の理へ縛ろうとするか』


 停止していた攻撃が反転する。


 銃弾と魔術が、放った本人たちへ返された。


 爆発が連続する。


 調査員たちが次々と倒れた。


 誰一人、冥黒騎士へ触れることすらできない。


 澪が《疾風脚》を発動する。


 青い風をまとい、一瞬で冥黒騎士の懐へ潜り込んだ。


『やめなさい!』


 短剣を振るう。


 冥黒騎士は左手だけで刃を受け止めた。


『まだ、この程度の力しか……』


『放してください!』


『ご安心を。すぐに取り戻して差し上げます』


 冥黒騎士が腕を振るう。


 澪の身体が宙へ浮いた。


『澪ち!』


 朱音が飛び込む。


 空中で澪を抱き止め、そのまま床を転がった。


『怪我ない!?』


『私は平気です。火神さんは下がってください!』


『友達置いて下がれるわけないじゃん』


『いつ友達になったんですか!』


『今!』


『今なんですか!?』


『文句は生きて帰ってから聞く!』


 朱音が立ち上がる。


 恐怖で脚が震えていた。


 それでも、澪の前から動かなかった。


『友達……』


 冥黒騎士が、吐き捨てるように呟く。


『そのような偽りの絆が、陛下を弱くする』


『はいはい。友達いない奴の嫉妬ね』


『火神さん、挑発しないでください!』


『こういう奴、黙ってても殴ってくるっしょ!』


 朱音の両拳から、炎が噴き上がる。


『澪ちに触んな』


 炎が巨大な翼を形作った。


『《炎天舞踏》――《鳳凰翔》!』


 炎の鳥が広間を駆ける。


 獄炎龍へ放ったものより大きい。


 朱音の全力。


 冥黒騎士が、初めて大剣を両手で握った。


 横薙ぎの一閃。


 炎の鳥が、中央から両断された。


『嘘っしょ――』


 爆炎の向こうから、冥黒騎士が現れる。


 大剣の腹が、朱音の胴を捉えた。


 鈍い音。


 朱音の身体が折れ曲がる。


『がっ……!』


 砲弾のように吹き飛び、岩壁へ叩きつけられた。


 壁面に亀裂が走る。


 朱音が床へ落ちた。


『朱音さん!』


 初めて、澪がその名を呼んだ。


 朱音は立ち上がらない。


 額から流れた血が、焼けた肌を伝っていた。


 右腕が、不自然な方向へ曲がっている。


「やめろ……」


 俺は玄関へ走りながら、端末を握り締める。


 行かなければならない。


 今すぐ、澪のそばへ。


 それでも東京第七ダンジョンまでは遠い。


 どれだけ急いでも、すぐには届かない。


『火神さん!』


 澪が朱音へ駆け寄る。


『来ないで……』


 朱音が、左手を床につく。


『動かないでください!』


『だい、じょうぶ……』


 震える脚で立ち上がった。


 右腕は下がったまま動かない。


 口元から血を流し、それでも笑ってみせる。


『大丈夫に見えません!』


『こういうときは、大丈夫って言っとくもんじゃん』


『下がってください。これは私の問題です』


『昨日、澪ちが言ったんでしょ』


 朱音が、澪の前へ戻る。


『背中を預けられない人とは、一緒に戦えないって』


『どうして、それを……』


『あの場所、報道陣いっぱいいたから。動画、もう切り抜かれてる』


『最低です』


『マジそれな』


 朱音が、残った左拳へ炎を集める。


 弱々しい炎。


 それでも消えない。


『だからさ。背中くらい、預けてよ』


『朱音さん……』


『大丈夫。トーヤっちが来るまで、うちが守るから』


 その言葉に、澪の顔が歪んだ。


 俺は今、そこにいない。


『勇者ならば現れません』


 冥黒騎士が大剣を持ち上げる。


『陛下が遠ざけたのでしょう』


『黙れ……』


『また、間に合わぬ』


「黙れ!」


 冥黒騎士の声と、俺の胸に浮かんだ言葉が重なった。


 俺は、また間に合わない。


 ミレアが一人で死を決めた、あの日と同じように。


 彼女が苦しんでいたことに気づけず。


 最後になって、殺してほしいと頼まれるまで何もできなかった。


『消えよ』


 大剣が振り下ろされる。


 朱音が左腕を上げる。


 小さな炎の壁が生まれた。


 黒い大剣と炎が衝突する。


 炎は一瞬で砕けた。


『あ――』


 朱音の肩から胸元へ、黒い斬撃が走った。


 血が噴き出す。


 朱音が仰向けに倒れる。


『朱音さん!』


 澪が抱き起こす。


 朱音の探索者装備は裂け、赤黒く染まっていた。


 呼吸が浅い。


 目の焦点も合っていない。


『澪……ち……』


『話さないでください!』


『ごめん。ちょっと……無理かも』


『嫌です』


『あとは……トーヤっちに……』


『嫌です!』


 澪の叫びが広間へ響いた。


『私を置いていかないでください!』


 朱音の瞳が、わずかに動く。


『……友達って、認めた?』


『認めます! 認めますから!』


『そっか……』


 朱音が、ほんの少しだけ笑った。


『よかった』


 左手が床へ落ちる。


『朱音さん?』


 返事はない。


『朱音さん!』


 澪が顔を上げる。


 冥黒騎士を睨みつける。


『この者の命を救うことなど、陛下には容易い』


『……何ですって』


『御身が本来の力を取り戻せば』


 冥黒騎士が門を示す。


『魔物の力を奪うだけではない。傷も、死も、世界を縛る理すら、御身の前では等しく奪うべきもの』


『私が魔王になれば、朱音さんを救えるんですか』


『無論にございます』


『夜凪さん……』


 倒れた静香が声を絞り出す。


『聞いては、いけません……』


『ですが、このままでは朱音さんが死にます』


『相手の狙いは、あなたの人格を消すことです』


『分かっています』


『なら――』


『見捨てろと言うんですか』


 静香は答えられなかった。


 澪が腕の中の朱音を見る。


 彼女を庇い、何度も立ち上がった少女。


 出会って、まだ二日。


 それでも澪は、失いたくないと思っている。


 だから。


 自分を差し出そうとしている。


「やめろ、澪」


 走りながら叫ぶ。


 画面の向こうに、声は届かない。


「君まで同じことをするな!」


『分かりました』


 澪が朱音の身体を、静かに床へ横たえる。


『記憶でも、力でも、欲しいものは返します』


 黒い門へ向き直る。


『だから、朱音さんを助けてください』


『仰せのままに』


 冥黒騎士が片膝をつく。


 門から黒い霧が伸び、澪の身体へ絡みついた。


 周囲に落ちていた探索用端末が、一斉に警報を発する。


《固有能力の上位移行を確認》


《能力捕食(アビリティ・デヴォア)――変質》


《権能領域への到達を確認》


《万象簒奪(オムニア・デヴォランス)》


《警告》


《対象個体の魔力量が測定可能領域を超過しました》


『やめなさい、夜凪さん!』


『ごめんなさい、高嶺さん』


『あなたが謝る必要はありません! だから――』


『葛城さんにも、謝っておいてください』


 澪が寂しそうに笑う。


『借りた装備を、返せそうにないと』


「自分で言え!」


 黒い霧が澪を包む。


「そんなこと、自分で俺に言え!」


 映像が暗転した。


     ◇


 東京第七ダンジョンまで、通常なら車で四十分。


 五分で着いた。


 途中、いくつか屋根を壊した気がする。


 あとで謝ろう。


 地下二階へ飛び込む。


 そこに広間はなかった。


 壁一面が黒い霧に覆われ、巨大な繭のようになっている。


 外へ弾き出された調査員たちが倒れていた。


「高嶺!」


「葛城、さん……」


 静香が壁に背を預け、腹部を押さえている。


「朱音と澪は?」


「黒い空間の、中です」


「入口は?」


「ありません。私たちでは、破壊できませんでした」


 黒い繭へ触れる。


 膨大な魔力が腕へ絡みつき、皮膚を焼いた。


 右手の黒い指輪が震えている。


 聖剣《アストラペ》。


 かつてミレアの命を奪った剣。


 今また、彼女へ近づくために、この剣が必要になる。


「起きろ」


 指輪に亀裂が走る。


 赤い光が漏れ出した。


「お前が奪ったものを、取り戻しに行くぞ」


 指輪が砕ける。


 白銀の柄が右手へ現れた。


 赤い雷光が広間を走る。


 刃は、まだ完全には形成されていない。


 それでも構わない。


 黒い繭へ、赤い光を突き立てる。


「開け!」


 空間が裂けた。


 黒い霧が渦を巻く。


 静香が俺の腕を掴む。


「待ってください。向こうの状況が分かりません」


「澪がいる」


「罠です」


「だろうな」


「あなたを呼び込むための罠かもしれません」


「それでも行く」


「また、一人で決めるんですか?」


 足が止まった。


 静香が、真っ直ぐに俺を見る。


「夜凪さんは、あなたに助けてほしいとは言っていません」


「分かってる」


「なら――」


「助けるかどうかは、澪に会ってから聞く」


 今度は、俺が勝手に彼女の道を決めない。


 真実を知るなとも。


 魔王になるなとも言わない。


「拒絶されたら帰る。殴られたら受け入れる。殺されそうになったら……できるだけ逃げる」


「最後だけ曖昧ですね」


「でも、一人では行かせない」


 澪が選んだ道の先に何があるのか。


 今度は俺も一緒に見る。


「それが、今の俺の選択だ」


 静香の手から力が抜ける。


「必ず、二人とも連れて帰ってください」


「ああ」


「夜凪さんの意思を聞いた上で、です」


「分かってる」


 裂け目へ飛び込んだ。


     ◇


 たどり着いたのは、記憶の中と同じ場所だった。


 魔王城最上階。


 黒曜石で作られた謁見の間。


 左右に並ぶ巨大な柱。


 紫色の炎。


 奥には、翼を広げた魔物を模した黒い玉座がある。


 あの日。


 アルミレアは、あの玉座の前で俺を待っていた。


 世界を滅ぼしかねない力を、自分の中へ封じ込めながら。


 俺に殺されるために。


「朱音!」


 床へ倒れた朱音を見つける。


 血まみれだった。


 右腕は折れ、肩から胸元に深い傷を負っている。


 けれど、呼吸はある。


 傷口を黒い霧が覆い、出血を抑えていた。


「トー……ヤっち……」


 朱音の瞼が、わずかに開く。


「悪い。遅くなった」


「遅すぎ……顔だけ百点男……」


「それを言えるなら死なないな」


「死ぬかと、思ったし……」


「澪は?」


 朱音が震える指で、玉座を示した。


「あたしらを……守るために……」


 顔を上げる。


 黒い玉座へ、澪が座っていた。


 長い黒髪が解け、床まで流れている。


 探索者装備は黒い霧に覆われ、漆黒のドレスへ変わっていた。


 額から伸びる、二本の黒い角。


 背後には、巨大な翼。


 胸元には、翼と月の紋章が浮かんでいる。


 紅紫色の瞳が、ゆっくりと開いた。


「澪」


 呼びかける。


 その瞳が、俺を捉えた。


「……トーヤ?」


 声は澪のものだった。


 けれど、その呼び方は。


「ミレア」


 俺が一歩、踏み出す。


「来ないでください」


 強い拒絶。


 足を止める。


「朱音は助かった」


「はい」


「君が助けたんだな」


「……分かりません」


 澪が自分の両手を見る。


「力が、流れ込んできます」


 声が震える。


「知らない景色も。知らない人たちの顔も。あなたと過ごした時間も」


「澪」


「誰なんですか、私は」


 紅紫色の瞳から、涙が落ちた。


「夜凪澪なのか。アルミレアなのか。分からないんです」


「どちらかを選ぶ必要はない」


「え……」


「澪として生きた十七年も、ミレアとして生きた時間も、どっちも君のものだ」


 澪が目を見開く。


「そんな簡単に……」


「簡単じゃない。すぐに受け入れられなくていい」


「なら、私はどうすればいいんですか」


「一緒に考えよう」


「また、あなたが決めるんですか」


「違う。君が決めるまで、そばにいたい」


 黒い魔力が、澪の身体から立ち昇る。


「私がアルミレアなら、あなたは私を殺した人です」


「ああ」


「それなのに……」


 澪が胸元を押さえる。


「あなたを見ていると、苦しい」


「……澪」


「怖い。悲しい。なのに、そばへ行きたい」


 澪の口調が、徐々に変わっていく。


「抱き締めてほしいと、思ってしまう」


 少女の声に、気高い女王の響きが重なった。


「わたくしは、あなたに殺されたはずなのに」


「ミレア」


「その名で呼ばないでください」


 俺の手にある聖剣が、赤い雷光を放つ。


 ミレアの視線が、聖剣へ落ちた。


 その瞬間。


 彼女の顔から、すべての感情が消えた。


「――いや」


 それは魔王の声ではなかった。


 殺される直前の、一人の女の声だった。


 空間が歪む。


 ミレアの右手に、漆黒の大鎌が出現した。


「陛下」


 冥黒騎士が立ち上がる。


「その男こそ、御身を殺した勇者にございます」


「違う……」


「陛下?」


「わたくしは、この方を傷つけたいわけでは……」


 ミレアの腕が、本人の意思に逆らうように持ち上がる。


 大鎌の刃が、俺へ向いた。


「身体が、言うことを……」


「それでいい」


「よくありません!」


「好きにしろ。俺は逃げない」


「逃げてください!」


 ミレアが叫ぶ。


 直後。


 姿が消えた。


 黒い閃光。


 漆黒の大鎌が、俺の首へ迫る。


 聖剣を持ち上げ、刃を受け止めた。


 衝突した瞬間、両腕の骨が軋んだ。


 床が陥没する。


「ぐっ……!」


 受け止めきれない。


 獄炎龍とは比較にもならない力。


 聖剣を握った俺が、正面から押し負けている。


「違う……止まって……!」


 ミレアが苦しそうに叫ぶ。


 だが、大鎌へ流れ込む魔力は増していく。


 俺の右膝が、床へついた。


「おお……」


 冥黒騎士が歓喜に震える。


「これぞ、常闇の女王。我らがアルミレア陛下!」


「黙りなさい!」


 ミレアの怒声が、謁見の間を震わせる。


「陛下?」


「わたくしがこの方を愛したことまで、偽りにした覚えはありません」


 冥黒騎士の動きが止まった。


「愛しているから、苦しいのです」


 ミレアの瞳から涙が溢れる。


「愛しているから、殺されたことが怖い」


 大鎌が聖剣を押し込む。


「愛しているのに……身体が、あなたを拒絶する」


「分かってる」


「分かったような顔をしないでください!」


 大鎌が振り抜かれた。


 俺の身体が宙へ浮く。


 柱を三本破壊し、壁へ叩きつけられた。


 肺から空気が抜ける。


 口の中に、血の味が広がった。


 それでも立ち上がる。


「来ないでください」


 ミレアが後退する。


 俺は一歩進む。


「来ないで!」


「君を一人にしないって決めた」


「わたくしは、あなたを殺してしまいます!」


「一度殺したんだ。一度くらい殺されかけても、釣り合わない」


「そのような問題ではありません!」


 黒い霧が、足元から俺の身体へ絡みついた。


 体内の気が奪われていく。


「これは……」


 聖剣の赤い光まで、黒い霧へ吸収される。


《魔力吸収》ではない。


《能力捕食》でもない。


 触れた力だけではなく、その力を生み出す根源ごと奪っていく。


《万象簒奪》。


 かつて、異世界の法則さえ喰らった魔王の権能。


「やめて……」


 ミレアが首を横へ振る。


「わたくしから、離れてください」


「嫌だ」


「どうして!」


「好きな女に、離れろと言われて素直に従う男に見えるか?」


「このようなときまで……!」


「少し安心しただろ」


「何を――」


「俺が、いつものクズで」


 ミレアの瞳が揺れる。


 ほんの一瞬。


 そこに夜凪澪の顔が戻った。


「……最低です」


「ああ」


「本当に、最低のクズです」


「それも知ってる」


 一歩。


 また一歩。


 力を奪われながら、ミレアへ近づく。


 彼女は後退する。


 けれど、背後には玉座がある。


 もう下がれない。


「来ないで……」


「澪」


「その名で呼ばないでください」


「ミレア」


「その名でも呼ばないで!」


「なら、君が教えてくれ」


「何を……」


「今の君の名前を」


 ミレアの顔が歪む。


「分かりません」


「なら、一緒に考えよう」


「どうして……」


「今度は、君一人に背負わせない」


「また、わたくしの意思を無視するのですか」


「違う」


 手を伸ばす。


「一緒に悩ませてほしいって、頼んでる」


 指先が、あと少しで届く。


「嫌なら断ってくれ」


「断ったら?」


「そこで止まる」


「帰ってくださいますか?」


「それは別の相談だ」


「やはりクズではありませんか」


 泣きながら。


 ミレアが、ほんの少し笑った。


 その瞬間だった。


 俺の手にある聖剣が、強く脈打つ。


 赤い雷光が弾けた。


 ミレアの瞳に、恐怖が浮かぶ。


 白い刃。


 胸を貫く痛み。


 俺の腕の中で失われていく命。


 死の記憶だけが、彼女の魂を呑み込む。


「いやああああああっ!」


 大鎌が動いた。


 速すぎて、見えなかった。


 避けることはできた。


 聖剣で防ぐことも。


 それでも身体は動かなかった。


 ここで剣を向ければ、また同じになる。


 俺を見つめるミレアの顔が、絶望に染まる。


「避けて!」


 漆黒の刃が、俺の胸を貫いた。


 肉を裂き。


 骨を砕き。


 心臓の横を通り抜ける。


「がっ……」


 口から血が溢れる。


 聖剣が手から落ちた。


 赤い光が消える。


「トーヤ!」


 ミレアが大鎌から手を離す。


 俺の身体が前へ倒れた。


 彼女が慌てて抱き止める。


 あの日とは、逆だった。


 あの日は、俺が胸を貫かれた彼女を抱いていた。


 今は、彼女が俺を抱いている。


「どうして……」


 ミレアの手が、傷口へ触れる。


 黒い霧が必死に血を止めようとする。


「どうして、避けなかったのです」


「君が……俺を憎んでないって、分かったから」


「分かったようなことを……!」


「痛いから、もう少し優しく抱いてくれ」


「今、そのような冗談を言う場面ですか!?」


「澪みたいだな」


 彼女の表情が固まる。


 紅紫色の瞳から、大粒の涙が落ちた。


「わたくしは、澪ではありません」


「ああ」


「あなたが愛した魔王です」


「ああ」


「あなたに殺された女です」


「……ああ」


「なら、なぜ」


 傷口を押さえる手が震える。


「なぜ、あなたはわたくしを恐れないのです」


「好きだから」


「なぜ、剣を向けないのです」


「もう二度と、君には向けないと決めた」


「なぜ……」


 ミレアが俺の身体を抱き締める。


 まるで、失われていく命を繋ぎ止めようとするように。


「なぜ、わたくしは――」


 涙に濡れた紅紫色の瞳が、俺を見つめた。


「あなたに殺された今も、あなたを愛しているのですか?」

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