第五話 かつて殺した魔王に、パーティーを解消された
目を覚ました澪の第一声は、
「……クズ?」
だった。
少し安心した。
第二声は、
「近づかないでください」
だった。
安心できたのは、わずか三秒だった。
◇
渋谷迷宮十五階に現れた冥黒騎士は、澪が意識を失った直後、俺へ向かって大剣を振り下ろした。
俺は澪を抱いたまま、その刃を素手で受け止めた。
『記憶を取り戻されたとき、陛下は必ず勇者へ裁きを下される』
そんな言葉を残し、冥黒騎士は黒い霧となって消滅した。
本体ではなかったらしい。
獄炎龍の魔石を媒介に、遠く離れた場所から姿を投影していたのだろう。
同時に、澪へ跪いていた魔物たちも地面の亀裂へ姿を消した。
残されたのは、意識を失った澪。
混乱する調査隊。
そして、何十万人もの視聴者へ流された、あまりにも説明しにくい映像だった。
澪は探索者協会の医務室へ運ばれた。
検査では身体に異常なし。
それから三時間。
俺は、ベッドの横に置かれた椅子へ座っていた。
目を覚ました澪は、俺の顔を見て一瞬だけ安堵し――すぐに怯えたように身を引いた。
「近づかないでください」
「……分かった」
椅子を引き、ベッドから距離を取る。
澪が自分の胸元へ触れる。
服の上から、心臓の辺りを何度も確かめていた。
「傷はない」
「分かっています」
「身体にも異常は――」
「分かっています!」
強い声が、医務室へ響いた。
澪自身も驚いたのか、唇を噛む。
「……すみません」
「謝らなくていい」
「どうして、あなたが謝られる側のような顔をするんですか?」
「元からこういう顔だ」
「そうやって、また誤魔化すんですね」
返す言葉がなかった。
澪の瞳は、いつもの濃紫色に戻っている。
それでも、俺を見る目は以前と違っていた。
警戒。
戸惑い。
そして、恐怖。
「どこまで覚えてる?」
「私が聞きたいです」
「澪」
「私の中に入ってきた、あの記憶は何ですか?」
澪の指先が震えている。
「知らない場所でした。黒い城と、燃えている空。それから、大勢の人が戦っていました」
途切れ途切れに、彼女は語る。
「私は、今とは違う姿をしていました。角があって、黒いドレスを着ていて……あなたを、トーヤと呼んでいた」
「ああ」
「あなたは、今より少しだけ真面目そうでした」
「昔は真面目だったからな」
「それは、とても信じられません」
「ひどいな」
いつもなら、ここで澪は呆れた顔をする。
けれど今日は笑わなかった。
「それから……白い剣が見えました」
右手の黒い指輪が、微かに震えた。
澪の視線が、俺の指輪へ落ちる。
「その指輪です」
「これは指輪だ」
「嘘です」
即答だった。
「私は、その剣を知っています。この目で見たことがある。いえ――」
澪が胸元を押さえる。
「この胸を、その剣で貫かれた」
「澪、今は休め」
「誰に貫かれたと思いますか?」
「…………」
「答えてください」
澪が俺を見る。
震えている。
それでも、目を逸らさなかった。
「私は、誰に殺されたんですか?」
医務室の扉が、勢いよく開いた。
「はい、そこまで!」
火神朱音が、両手に紙袋を抱えて入ってくる。
その後ろには、高嶺静香もいた。
「目覚めたばっかの病人に重い話させるの禁止! まず水分! 次に糖分! そのあと人類の未来!」
「最後だけ規模が大きすぎないか?」
「配信で魔王バレしたんだから、もう世界規模っしょ」
「火神さん。本人の前でもう少し言葉を選んでください」
「じゃあ、元魔王疑惑?」
「悪化しています」
静香が眼鏡の位置を直す。
朱音はベッド脇へ紙袋を置き、中から飲み物と菓子を取り出した。
「澪ち、プリン食べる?」
「……食欲はありません」
「じゃあトーヤっち」
「もらう」
「病人より先に手を出すな!」
「俺も心に重傷を負ってる」
「自業自得の傷は保険適用外でーす」
朱音に手を叩かれた。
澪が、ほんの少しだけ息を漏らす。
笑ったようにも見えたが、すぐに顔を伏せてしまった。
「体調はいかがですか?」
静香が尋ねる。
「少し頭が痛みます。ですが、それ以外は問題ありません」
「検査結果も正常です。ただし、魔力値が昏睡前の三倍以上に上昇しています」
「三倍……」
「現時点で身体への悪影響は確認されていません。原因については――」
「魔王としての力が戻り始めている」
俺が答える。
静香の視線がこちらへ向いた。
「その根拠は?」
「冥黒騎士が言っていただろ。器、魂、常闇の権能。あいつは外見だけで澪をアルミレアだと判断したわけじゃない」
「では、夜凪さんが魔王の転生体であるという話を認めるのですね?」
「俺は最初から知ってた」
澪が顔を上げる。
「最初から……?」
「君を見つけたときには、もう分かってた」
「それなのに、何も言わなかったんですか?」
「ああ」
「どうして?」
「記憶がないなら、知らない方がいいと思った」
「それを決めたのは誰です?」
「俺だ」
「私の過去なのに?」
「そうだ」
「勝手ですね」
「知ってる」
今度こそ、澪の顔から完全に表情が消えた。
「すみません。葛城さんには退室していただけますか?」
静香が俺と澪を交互に見る。
「このあと、協会から状況について説明します」
「俺も聞く」
「夜凪さん本人への説明です」
「俺にも関係がある」
「今の彼女が、あなたと同席することを望んでいるように見えますか?」
何も言い返せなかった。
澪はこちらを見ていない。
俺は椅子から立ち上がる。
「廊下にいる」
「必要になったら呼びます」
「ああ」
扉へ向かう。
その背中へ、澪の声が届いた。
「クズ」
「何だ?」
「逃げないでください」
振り返る。
澪は俯いたままだった。
「まだ、あなたに聞きたいことがあります」
「分かった」
「次に誤魔化したら、《黒鎧》で殴ります」
「いつもと変わらないだろ」
「今度は本気です」
「今までは手加減してたのか?」
「当然です。あなたを殺すつもりはありませんでしたから」
今までは。
その言葉だけが、胸に残った。
◇
医務室の外では、協会職員たちが慌ただしく行き交っていた。
廊下に設置された大型モニターで、緊急ニュースが流れている。
『昨日、東京第五ダンジョンで発生した異常事態について、探索者協会は現在も詳しい状況を発表していません』
画面には、冥黒騎士と魔物たちが澪へ跪く場面が繰り返し映されていた。
『謎の騎士は、Eランク探索者の夜凪澪さんを“魔王アルミレア”と呼びました』
『ネット上では、夜凪さんが人間ではないのではないかという憶測も――』
「好き勝手言いやがって」
画面を消そうとする。
その直前、別の映像に切り替わった。
『現場にいた探索者、火神朱音さんは、自身のアカウントで次のように発信しています』
朱音の投稿が表示される。
『澪ちは人間です。昨日も今日も、誰かを守るために戦っていました。魔物が勝手に跪いたからって、本人まで魔物扱いするの普通に意味分かんないんだけど』
続けて、コメントが紹介される。
『でも魔王なんだろ?』
『ダンジョン異常の原因じゃないのか』
『今のうちに拘束するべき』
『人類の敵になる可能性がある』
『黒姫を信じる』
『昨日、負傷者を守ったの見ただろ』
『無職ニキが何とかしろ』
「最後の奴、他人任せすぎるだろ」
「ですが、葛城さんに期待する気持ちは理解できます」
隣から声がした。
静香ではない。
黒いスーツを着た、五十代ほどの男が立っていた。
後ろには武装した協会職員が二人いる。
「探索者協会危機管理部長の峰岸です」
「葛城燈矢。無職です」
「存じています」
「無職の知名度が上がりすぎじゃないか?」
「昨日から、協会内であなたの名を知らない人間はいません」
「人気者はつらいな」
「残念ながら、好意的な意味ばかりではありません」
峰岸が医務室の扉を見る。
「夜凪澪さんについて、いくつか確認させていただきます」
「本人に聞け」
「あなたは彼女を、異世界に存在した魔王の転生体だと認識していた」
「ああ」
「彼女は魔物を支配できますか?」
「今の澪には無理だ」
「今は?」
嫌な聞き方をする男だった。
「将来的には可能になるかもしれない」
「危険性を否定できないと」
「人間だって銃を持てば人を殺せる。全員拘束するのか?」
「彼女は何十体もの魔物を従えました」
「澪が命令したわけじゃない」
「しかし、魔物たちは彼女を王と認識している」
「だから何だ?」
峰岸の後ろにいた職員が、一歩前へ出る。
俺はそちらを見た。
それだけで、二人の足が止まった。
「彼女をどうするつもりだ」
「安全性が確認されるまで、協会の保護施設へ移送します」
「保護?」
「監視下へ置くという意味です」
「随分と正直だな」
「あなたには、言葉を飾る意味がないと判断しました」
「正しい判断だ」
一歩、峰岸へ近づく。
「なら俺も、正直に言っておく」
体内から、わずかに気を放つ。
廊下の空気が軋んだ。
壁に細い亀裂が走る。
武装した職員たちの顔から血の気が引いた。
「澪に鎖をつけるなら、先に俺を止めろ」
「脅迫ですか?」
「忠告だ」
「その発言によって、あなたも危険人物として――」
「記録でも何でもしろ」
峰岸の顔から余裕が消える。
「俺は一度、世界のためにあいつを失った」
右手の指輪を握る。
「二度目はない」
「クズ」
医務室の扉が開いていた。
澪が静香に支えられながら、そこに立っている。
「病人は寝てろ」
「誰のせいで起きてきたと思っているんですか?」
「峰岸さんのせい」
「あなたです」
「やはり?」
澪が、ひび割れた壁を見る。
「協会の壁を壊さないでください」
「まだ壊してない」
「亀裂が入っています」
「壁が自分から割れた」
「壁に謝ってください」
「ごめん」
「私ではなく壁に向かって!」
俺は壁へ頭を下げた。
「これでいい?」
「どうして少し不満そうなんです?」
「澪に頭を下げたわけじゃないから」
「子供ですか!」
峰岸が呆然と俺たちを見ている。
静香は額を押さえていた。
「夜凪さん。まだ歩いてはいけません」
「大丈夫です。それより、話は聞こえていました」
澪が峰岸を見る。
「私を監視下へ置くのですね」
「危険性が否定されるまでの、一時的な措置です」
「分かりました」
「澪」
「ただし、施設への移送は拒否します」
澪は俺を見ずに続ける。
「私は学校へ通っています。探索者としての活動も続けたい。逃げるつもりも、魔物を率いて人類を滅ぼすつもりもありません」
「しかし――」
「高嶺さんを、私の監督官にしてください」
静香が目を見開く。
「私を?」
「はい。毎日の行動を報告します。魔力や能力の測定にも応じます。それでも問題があるというなら、探索者資格を返還します」
「そこまでする必要はない」
口を挟む。
澪が初めて俺を見た。
「私のことです」
「分かってる」
「いいえ。分かっていません」
静かな言葉だった。
「あなたは先ほどから、私を守ると言っています。ですが、私がどうしたいかを一度も聞いていません」
「危険だからだ」
「だから、勝手に決めるんですか?」
「…………」
「過去を話さなかったことも。私を監視させないことも。全部、私のためだと言えば許されると思っていますか?」
「思ってない」
「なら、少し黙っていてください」
「はい」
反射的に返事をしてしまった。
峰岸が俺を見る。
「従うのですね」
「澪が怖いからな」
「本当に殴りますよ」
「もう黙ります」
峰岸は、しばらく考え込んだ。
「高嶺君。君はどう考える?」
「夜凪さんが昨日から取った行動は、すべて人命救助を目的としたものです。現段階で拘束する根拠はありません」
「魔王の転生体だとしても?」
「前世を理由に現世の人間を処罰する法律はありません」
「彼女自身が危険な能力を持っている」
「それを言うなら、火神さんも葛城さんも危険です。特に葛城さんは今、廊下を威圧だけで破壊しかけました」
「壊してはいない」
「黙っていてください」
「はい」
「私が監督官を務めます。異常が発生した場合、責任を持って対処します」
峰岸は澪と静香を交互に見た。
「……分かりました。上層部には私から説明します。ただし、毎日の魔力測定と行動報告は必須です」
「承知しました」
「また魔物が現れた場合、即座に連絡してください」
「はい」
「葛城さん」
「何だ?」
「あなたについても、今後は高嶺君の監督下へ入っていただきます」
「どうして俺まで?」
「今のやり取りで、必要性を確信しました」
「俺は魔王じゃないぞ」
「魔王より危険かもしれません」
「失礼な奴だな」
「否定できません」
澪と静香の声が重なった。
「そこだけ息を合わせるなよ」
◇
協会による事情聴取と検査が終わった頃には、外は暗くなっていた。
朱音は報道陣の目を引きつけるため、先に正面玄関から出ていった。
『魔王本人に直撃しました!』
『澪ちはかわいい普通の女子高生です!』
『好きな食べ物はたぶん高くないもの!』
『無職ニキとは付き合ってません! たぶん!』
そんなことを叫びながら、記者たちを引き連れて走っていったらしい。
「優秀なんだか、余計なことをしているんだか分からないな」
「火神さんなりに、私を守ろうとしてくれているんです」
「いつの間に仲良くなった?」
「友達ですから」
「認めたのか」
「……本人には言わないでください」
「照れてる?」
「殴りますよ」
いつもの会話。
それなのに、俺たちの間には一人分以上の距離が空いていた。
協会の地下駐車場。
静香が車を取りに行き、広い通路には俺と澪だけが残されている。
「送っていく」
「高嶺さんに送ってもらいます」
「家までついていく」
「通報します」
「家の周りに記者がいるかもしれない」
「その場合も高嶺さんにお願いします」
「なら、家の上空から見張る」
「どこで浮いているつもりですか?」
「電柱の上とか」
「不審者です」
「じゃあ屋根裏」
「犯罪者です」
「ベッドの下」
「燃やします」
「それだけ元気なら平気そうだな」
澪の表情から、わずかに力が抜けた。
しかし、すぐにまた俯く。
「……聞きたいことがあります」
「ああ」
「今度は、誤魔化さないでください」
「分かった」
澪が胸元へ触れる。
「先ほど、また少し思い出しました」
俺の心臓が強く脈打った。
「黒い城の最上階。私は、あなたと向かい合っていました」
聞きたくない。
それでも、逃げないと約束した。
「あなたは白い剣を持っていました。私は何かを言っていた。でも、そこだけは聞こえません」
「…………」
「次に見えたのは、私の胸を貫いている剣でした」
澪の声が震える。
「あなたは泣いていました。私を抱き締めて、何度も謝っていました」
あの日の感触が、右手に蘇る。
冷たくなっていく身体。
指先から零れ落ちる黒い髪。
最後まで俺を責めずに、微笑んでいたミレア。
「私は、あなたが好きだった」
「ああ」
「あなたも、私を……?」
「愛してた」
過去形でしか言えなかった。
今の澪へ向かって、その続きを言う資格はない。
「では、答えてください」
澪が顔を上げる。
瞳に涙が浮かんでいた。
「あの剣で、私を殺したのはあなたですか?」
ここで否定することもできた。
記憶が混乱していると言えばいい。
冥黒騎士に見せられた偽りの映像だと、誤魔化すこともできる。
だが、それだけは許されない。
これ以上、彼女へ嘘をつくことだけは。
「ああ」
俺は答えた。
「俺が君を殺した」
澪の顔から、表情が消えた。
「どうして?」
「言えない」
「私が魔王だったからですか?」
「違う」
「人間の敵だったから?」
「違う」
「あなたを裏切ったんですか?」
「違う」
「なら、どうして!」
澪の声が地下駐車場へ響いた。
「私は、あなたを愛していた! あなたも私を愛していた! なのに、どうして私を殺したんですか!」
「言えない」
「そればかりですね」
「澪が自分を責めるからだ」
「私が?」
「理由を話したら、君はきっと自分が悪かったと思う」
「それを決めるのも、あなたですか?」
「…………」
「私のためと言いながら、あなたは何も教えてくれない。何も選ばせてくれない」
「そうだな」
「認めればいいと思っているんですか?」
「思ってない」
「だったら!」
「俺が悪かった。それでいい」
澪の瞳から、一筋の涙が落ちた。
「よくありません」
「澪」
「それでは、私はあなたを憎むことしかできません」
「それでいい」
頬を叩かれた。
乾いた音が響く。
痛くはない。
黒鎧を使われた方が、まだ楽だった。
「ふざけないでください」
澪が俺のシャツを掴む。
「勝手に守って、勝手に隠して、今度は勝手に憎ませようとしないでください!」
「でも、俺が殺したのは事実だ」
「理由を知らなければ、判断できません!」
「知らなくていい」
「また、それですか」
澪の指から力が抜ける。
掴んでいたシャツを離し、鞄の中へ手を入れた。
取り出したのは、一枚の紙だった。
一か月限定のパーティー契約書。
第二話で、俺たちが署名したもの。
「一か月、私を育てる約束でしたね」
「ああ」
「まだ三日しか経っていません」
「随分濃い三日だったな」
「笑わせようとしないでください」
「悪い」
「謝らないでください」
「それは難しいな」
謝りたいことが多すぎる。
三か月前から、ずっと。
澪が契約書を俺へ差し出す。
「この契約を、解消します」
「…………」
「装備も返します。今日は協会から借りた服なので、後日まとめて――」
「返さなくていい」
「七十八万円もしたんですよ」
「貸与なんて言ったけど、最初から返してもらうつもりはなかった」
「そういうところも、勝手です」
「知ってる」
「二百四十万円の魔石は?」
「返せるのか?」
「働いて返します」
「何年かかると思ってる」
「何年かかっても返します」
「受け取らない」
「では、毎月振り込みます」
「口座を解約する」
「新しい口座を探します」
「海外へ逃げる」
「追いかけます」
「そこまで俺に会いたいのか?」
「そういうところが、本当に嫌いです」
また、涙が落ちた。
「……嫌いに、なりたいです」
その声は、あまりにも弱かった。
「あなたが最低のクズだったら、簡単だったのに」
「俺は最低のクズだぞ」
「知っています」
「なら解決だ」
「でも、私を助けてくれました」
澪が唇を噛む。
「役立たずだった私を、初めて認めてくれました。私の力を信じてくれました。誰も振り返らなかった場所で、あなただけが私を見つけてくれた」
そのすべては、澪のためにしたことだ。
同時に、自分が救われるためにしたことでもある。
「私は、あなたを信じたい」
「信じなくていい」
「だから!」
澪の拳が、今度は胸へ当たった。
殴ったのではない。
縋るように、シャツを握り締める。
「それをあなたが決めないでください……」
「澪」
「でも、今は無理です」
澪が俺から離れる。
「あなたの顔を見ると、胸が痛いんです。剣で刺された感触を思い出す。あなたの声を聞くと、知らない私が泣くんです」
「……そうか」
「怖いんです」
その一言が、何より深く突き刺さった。
「あなたが怖い。あなたを信じてしまう自分も、怖い」
「分かった」
俺は契約書を受け取った。
署名欄に並んでいる、二人の名前を見る。
葛城燈矢。
夜凪澪。
俺たちが一緒にいられる理由だった。
それを、両手で破る。
一度。
二度。
契約書が四つに分かれた。
「これで、パーティーは解散だ」
「……はい」
「装備と金は返さなくていい」
「ですが――」
「契約は終わった。もう君の指導者じゃない。だから俺が何を受け取るかも、俺が決める」
「そういう理屈だけは、すぐに思いつくんですね」
「人生経験が豊富だからな」
「女性関係の話ではありません」
いつもの返事だった。
それが、これで最後になるかもしれない。
遠くから、自動車のエンジン音が聞こえた。
静香が迎えに来たのだろう。
「クズ」
「何だ?」
「今まで、ありがとうございました」
「三日だけだけどな」
「それでもです」
澪が深く頭を下げる。
「助けてくれたことも、力を教えてくれたことも、信じてくれたことも。全部、本当に嬉しかったです」
「澪」
「さようなら、葛城さん」
澪が背を向ける。
呼び止めようとして、やめた。
追いかけようとして、足を止めた。
今、俺が近づけば、彼女を苦しめる。
だから、遠ざかっていく背中を見送った。
駐車場へ入ってきた車の前で、静香が澪を迎える。
二人が車へ乗り込む。
扉が閉まる直前、澪が一度だけこちらを見た。
泣いていた。
手を伸ばせば、まだ間に合う気がした。
けれど、その手を伸ばす資格が俺にはなかった。
車が走り去る。
広い地下駐車場に、一人だけ残された。
「……今度こそ守るって、決めたんだけどな」
答える者はいない。
右手にはめた黒い指輪へ触れる。
聖剣。
世界を救い、愛した女の命を奪った剣。
澪は正しい。
俺は、何も変わっていない。
あの日も、世界のためだと言って彼女の命を奪った。
今度は彼女のためだと言って、過去を知る権利を奪った。
守っているつもりで、俺はいつも彼女から何かを奪っている。
あの日は、命を。
今日は、真実を。
そして俺はまた、彼女の手を離した。
一度目は、世界を救うために。
二度目は――自分の罪から逃げるために。




