第九話 温かな匙(後編)
「うん、もう大丈夫だろう」
エリックは安堵の息を漏らしながら、ベッドに腰をかけたレムの額に当てていた手を離した。
数日前に運び込まれた時は痩せ細り、毛色もくすんで泥だらけだった少女は、今や見違えるほど顔色も毛並みも良くなっていた。
熱も下がり、うっすらと赤みがさした頬は、彼女が本来持っている愛らしさを取り戻しつつあることを証明している。
「あ、あの……」
「エリック! ミートパイが焼けたぞ!」
レムが何かを言いかけたその時、ロイの活気ある掛け声に、先ほどまでの落ち着いた空気が一気に吹き飛ぶ。
「おっと、こうしちゃいられないな」
足早に部屋を後にし、カウンターのいつもの席へ向かう。
熱々のミートパイを頬張っていると、視線の先でレムが白い尻尾の先を握りながら何度も口を開いては閉じ、モジモジしていた。
「エリックさん、助けてくれてありがとう。……あ、あのっ、」
「おっ、見かけない嬢ちゃんだな!」
カウンターで火酒を煽っていたガラム爺さんの豪快な声が飛んでくる。
「あ、あの、マチルダさん……」
「あぁ、レムちゃんって言うんだよ。これからはうちの看板娘が増えるから、よろしくね」
マチルダが周囲に紹介を始めてしまい、レムは言葉を飲み込む。
「ガハハハ、そうかい。こりゃますます女所帯になっちまって、ロイも肩身が狭くなるな。追い出されちまったら、儂の所で下働きとして雇ってやるぞ」
「ハハハ……」
ロイが苦笑いを浮かべる。
「あ、あの……っ」
「どうしたんだいロイ? こんな美人に囲まれるってのに元気がないじゃないかい?」
「あ、あの……っ」
「お父さん出て行かないで!」
エマがロイの袖を掴み、食堂はますます騒がしくなる。
レムは堪らず、その場の空気を切り裂くようにして声を張り上げた。
「あ、あのっ!!」
全員の視線が一斉に集まる。
「あの、わたし、ここの子にはならない」
一瞬の静寂。マチルダが目を丸くする。
「ど、どうしたんだい? ここが嫌になってしまったのかい?」
エマは今にも泣き出しそうな表情で「どこかに行っちゃうの?」と問いかける。慌てて首を横に振るレム。
「ううん、そうじゃなくて。……わたし、エリックさんのでしになりたい」
――カチャン。
エリックが持っていた匙が、音を立てて皿の上に落ちた。
「な、な、な、何を言ってるんだい……? ぼ、僕に弟子なんて、とんでもない」
必死に拒否するエリックの瞳を真っ直ぐに見つめ、レムは涙を溜めがらも意志を込めて続ける。
「エリックさんのお薬、すごいの。わたしも、困っている人を助けられるりっぱな薬師様になりたい。だから……でしにしてください!」
その必死の願いに、食堂全体が柔らかな空気に包まれる。マチルダは目元を拭い、「ふふ、いいじゃないかい。隣の家ならいつでも様子を見られるし、これほど安心なことはないよ」
「よかったぁ……!」
「エリックもついにお師匠様か」
「ち、ちょっと待ってくれ、何を勝手に話をすすめて……」
ロイとエマの言葉に、未だに戸惑うエリックの背中を、ガラム爺さんが容赦なく叩いた。
「小僧! 往生際が悪いぞ。嬢ちゃんが必死に頼んでおるんじゃ、聞いてやらんか!」
「だから小僧って……」
「いーや。お前はいつまで経っても、半人前の小僧のままじゃ。職人というのはな、弟子を持って初めて一人前になるんじゃ。そんなこともわからんのか。だから、お前はヤブの薬師だというんじゃ!」
「うぐっ……!!」
その時、レムが割って入るように声を張り上げる。
「違うもん! おししょー様はすごい薬師様だもん。みんなは知らないだけだよ。わたしは知ってる。おししょー様の魔法の薬は何だって治せるんだ。りっぱな薬師様になって、みんなに教えてあげるんだから!」
目を輝かせて胸を張る健気な少女の姿に、周囲から感嘆の声が漏れる。
「だから、おししょー様、わたしをでしにして! お願い!」
「い、いや、おししょー様って……こ、困るよ……やっぱりここにいるのが一番だよ」
エリックも簡単には譲れない。だらだらと冷や汗が首筋をつたう。
ついに、レムの瞳に溜まった涙が決壊し、ポタポタと足元の床を濡らしていく。
「エリック、悪いが、もうお前にミートパイは出せない」
ロイがひょいと食べかけのミートパイの皿を引く。
「ちょっ、ちょっと!」
狼狽するエリックにマチルダとエマが追い討ちをかける。
「あんた、もう出入り禁止だよ」
「ふん! もうエリックさんとはおしゃべりしないんだから」
ガラム爺さんが力いっぱいエリックの肩を掴み、「小僧! お前はヤブの薬師から、人でなしに転職するつもりか?」
全員から痛々しいまでの反感を買ったエリックは、深く、長くため息を吐く。
ロイからミートパイの皿を取り戻し、レムの前に椅子を寄せ、トントンと座面をたたく。
「……ほら、師匠と弟子は一緒に食事をするもんだ」
「ありがとう、おししょー様!」
金色の瞳を輝かせ、背丈より少し高い椅子の上へとよじ登ると、ほのかに温もりの残ったミートパイを嬉しそうに一匙頬張った。
エリックは自分を追い込んだ面々を見渡すと、「やれやれ、これでいいんだろ。だけど、どうなっても僕は知らないからね」と、諦めたように悪態をつく。
しかし、その隣でミートパイを頬張るレムの姿を、どこか嬉しげに見つめるのだった。




