第十話 屋根裏部屋の弟子(前編)
「エリック! あんたいったい何をやってるんだい!」
マチルダの怒鳴り声が、通りにまで突き抜けるような勢いで響き渡った。
時は遡る。
「う、うーーん」
寝床から二本の小さな腕がぐいと伸びる。
朝日が昇り始めたばかりの早朝のこと。屋根裏部屋の木戸の隙間から漏れる光に、レムは目を覚ました。
エリックの家の屋根裏部屋を与えられたその夜は、夢を見ているのかと思うほど温かく、心地の良い眠りだった。
「ふぁあ、朝だ、起きなくちゃ」
レムはマチルダから貰った小さなエプロンを身に着けると、早朝の冷え込みが残る中、梯子を伝い二階の廊下へ下り、階段を静かに踏みしめて音も無く一階へと降りる。
そこで目にしたのは、無防備なエリックの寝姿だった。
二階の自室に戻らずボロボロのソファーの上で、だらしなく口を開けて眠っている。
「おはよう! おししょー様。レム、薬師のしゅぎょうがしたい。何したらいい?」
キラキラした瞳で顔を覗き込む。
「……んー……ぁー……」
不意に起こされたエリックは、寝ぼけ眼をこすりながら力なく片手を上げた。視界の端にある汚れた食器や酒瓶、本やメモ書きで散らかり放題のテーブルを適当に指差す。
「……うーん、そのへんの掃除でもしておいてくれ……。まだ、ねむい……」
そう言い捨てると、再び深い眠りの海へ沈んでいった。
「お片付け、でしのしごと!」
フンスと小さく鼻を鳴らし、張り切って作業を始めた。師匠の仕事場をピカピカにすれば、きっとたくさん褒めてもらえる。
「ご本は大切なもの、おうちに帰してあげようっと」
テーブルや床に開かれて散らばった本を抱え、背伸びをして一生懸命に本棚へ積み上げる。
「さて、次はおそーじだ! ふんふふーん」
レムの小さな体よりも長い箒を手に取りバタバタと勢いよく掃く。
「すごいほこり、こほんっげほっ」
咳をした拍子にぐらりとよろめいて足元に無造作に置かれた壺をガツンと蹴飛ばし尻もちをつく。
――ゴツン! ガラゴロ! バシャーーッ!
「っ!!!」
静まり返った部屋に突如として大きな物音が響き渡ると、まるで一本のボトルブラシのように直立した尻尾をピンと張り詰めさせて跳ね上がった。
「しーっ……大きな音を出したらダメっ。おししょー様が起きちゃう」
壺の中身は何やらよくわからない粘り気のある液体で床一面にこぼれていた。
「わわわ、床がべとべとだ。あっ」
慌てて起き上がった拍子に床を滑って転び、その拍子に隣の棚へ体が触れた。
棚の上に乱雑に置かれた瓶がぐらぐらと揺れる。
――ガシャン、パリン
頭上から瓶が次々と落ちて割れ、様々な薬液が広がり粉末が舞い上がる。
レムが顔を上げるとそこにはおぞましい惨状が広がっていた。
「フガッ! むにゃむにゃ」
エリックの声にびくりと全身が総毛立ち、レムの小さな心臓が跳ね上がる。
(わわわ、汚しちゃった。おこられる。おししょー様が起きるまでに、きれいにしなくちゃ)
動転したレムは、近くにあったぼろ布や紙くずで拭う。そして、水桶からバシャバシャと水をぶちまけ、汚れを洗い流すことに全力を尽くした。
「う、うん、きれいにできた。あとは汚れたぼろ布と紙くずはぜんぶ暖炉に焚べちゃえ」
やがて、太陽が真上にさしかかる頃。部屋に漂う鼻を突く異様な悪臭に、エリックがゆっくりと目を覚ました。
「ふぁ……ん? なんだこの……焦げ臭くて、鼻が曲がりそうな匂いは……」
エリックは寝ぼけ眼をこすりながら体を起こした。視界に入った光景に、彼は言葉を失った。
あれほど散らかり放題だったはずの仕事場が、チリ一つないほど整然と片付いている。
そう、何もないのだ。
暖炉からは虹色に濁った異臭を放つ謎の煙がモクモクと上がっている。
「……え?」
部屋の隅で、エプロンはドロドロ、顔には煤と薬液を塗りたくったレムが、満面の笑みを浮かべていた。
「おししょー様、お片付け終わったよ!」
エリックが部屋を見渡すとテーブルの上や床が綺麗に片付けられていた。首筋に冷たい汗が伝い、ごくりと唾を飲んだ。
何年もの研究の集大成である記録も、考案した調合のメモ書きも、一枚も残っていない。
ふと、薬棚に視線を移す。調合中の薬の入った壺、貴重な生薬の入った瓶、それらも綺麗に全て消え失せていた。
「あわわわわ、な、ない……嘘だ。全部、ない。うわぁーーっ! 何てことをしてくれたんだ!」
エリックの悲痛な叫びに、レムはキョトンとした後、みるみるうちに瞳を潤ませる。
「おししょー様に片付けてって言われたから……しゅぎょう、上手にできなくてごめんなさい……」
「あーーーーーー、あれか……」
眉間に手をあてて、おぼろげな記憶を思い出すとともに後悔の念に苛まれる。
「うん……やっぱり、僕には弟子なんて必要ないんだ。……レム、君は隣の子になるといいよ。うん、それがいい」
俯いたレムの頬に、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。エリックは頭を抱え、荒々しく髪を掻きむしった。
その時だった。通りに漂う異臭に気づいたマチルダが、慌てた様子で扉を勢いよく開けた。
「エリック! あんたいったい何をやってるんだい! 外まですごい臭いだよ! おや……レムちゃん、何で泣いてるんだい? ……エリック、あんたレムちゃんに何をしたんだい!」
マチルダの表情が、みるみる間に怒りに染まっていく。
「い、いや、マチルダさん。これには事情が――」
「マチルダさん! 違うの。おししょー様は悪くないの……レムが上手にお片付け出来なかったから……だから、おししょー様、でしはいらないって……」
レムは大粒の涙をこぼしながら、必死に説明して師匠をかばった。
「そんなことで……エリック……あんたは根は良い奴だと思ってたけど、最低の男だね」
「いや、違うんだ! 僕には僕の流儀があったんだ、いつでもすぐに手に取れるように置いていた大事なものばかりなんだよ! それを全部失ったんだ!」
マチルダは一歩、エリックへと詰め寄る。
「屁理屈言ってんじゃないよ! 大事なものならもっと大切に扱うもんだろう! あんたの豚小屋みたいに汚い部屋をレムちゃんがこんなに一生懸命掃除してくれたのに、それを突き放すようなこと言って……!」
エリックは図星を突かれ、言葉を失う。静まり返った部屋の中で、レムの鼻をすする音だけが小さく響く。
「……あ、あの」
気まずい沈黙を破ったのは、エリック自身だった。彼はバツが悪そうに視線を泳がせながら、ゆっくりとレムの方へと歩み寄る。
「レム……。……僕が悪かった」
「おししょー様……」
「僕が適当なことを言ったのが悪かったよ。それに、君の気持ちを無視した。弟子なんていらないなんて……あんなひどいこと、言うべきじゃなかった。ごめん」
エリックはぎこちない手つきで、レムの頭をそっと撫でた。レムは驚いたように目を見開いたが、すぐに小さな安堵の表情を浮かべ、小さく頷いた。
マチルダは腕を組んでジロリと睨みつける。
「レムちゃんがせっかく片付けてくれたんだ。もう散らかすんじゃないよ。レムちゃん、全部この、ずぼらな男が悪いんだ。この調子でどんどんおやり。……エリック、いいね」
エリックは観念したように肩を落とした。
「……わかったよ。だけどレム、薬の棚と道具だけは触らないでくれ。あれは……あれだけは、本当に僕の命みたいなものなんだ。それ以外なら、君の好きに整理してくれて構わない」
「うん、きをつける。おししょー様、ごめんなさい」
マチルダが溜息をつきながらレムを慰める横で、エリックは消えてしまった薬とメモ書きの束がどこかに残っていないかと、冷や汗を流しながら必死に部屋を見渡すのだった。




