第六話 雨の日の邂逅(中編)
エリックは乾いた服に着替え、大きな革鞄を抱えて『琥珀の樽亭』へ大急ぎで戻ってきた。
「エリック、こっちの部屋だ」
ロイに案内された二階の空き部屋のベッドの上には、エマの寝間着に包まれた少女が横たわっていた。
壁の燭台から漏れる光は、少女の細い呼吸に合わせるかのように頼りなく揺れている。
「体をお湯できれいに拭いておいたよ。エマの寝間着もぴったりで良かった。だけど……すごい熱だねぇ、大丈夫なのかい」
マチルダが心配そうにベッドの傍らに佇んでいる。その服の裾を、エマが涙目のままぎゅっと握りしめていた。
「あの子、すごくつらそう……。エリックさん、助けてあげて……」
「わかった、今診てみるよ」
エリックは真剣な表情で頷くと、ベッドの脇に腰を下ろす。
まずは少女の細い腕を優しく握り、手首の脈をみる。速く、そして弱々しく打つ脈に眉をひそめた。
続いて、少女の口元へ耳を近づけて呼吸の音を聴き、その小さな口を開けさせて喉の奥を覗き込む。
「……ゼェ……ゼェ……ケホッ……ゼェ、ゼェ……」
少女の胸を指先でトントンと軽く叩くと、さらに自分の耳を少女の細い胸へと直接当てた。
「……喉が真っ赤に腫れてる。それ以上に衰弱がひどい……」
「エリック! その子は助かるんだろうね!」
マチルダが声を上げる。エリックは苦渋に満ちた顔で少女を見つめた。
「ひどく痩せてる、ずっと何も食べてなかったんだろう。そこへ、この冷たい雨だ。体が持ちこたえられなくなって、体の奥で酷い熱が暴れてる。……手は尽くすけど、正直、治るかどうかはこの子次第だ……」
「あんた、何とか助けてやってよ! こんな小さい子がかわいそうじゃないかい!」
「わかってるよ。マチルダさんは湯を沸かして、桶に入れて持ってきてくれないか」
「わかったよ!」
マチルダが慌てて部屋を飛び出していく。
エマは少女の手を握り必死に祈っているようだった。同い年くらいの子が生死をさまよっているのだ、無理もない。
エリックはすぐに大きな鞄を開けると、中から薬の入ったガラス瓶や天秤、小鍋に魔石ランプ、乳鉢などの道具を手際よく取り出し、机の上に並べた。
「まずは、呼吸を楽にしてあげないとな」
小さな麻袋をいくつか手に取り、乾燥させたミントとユーカリの葉を乳鉢で砕き、素早く詰め込んでいく。
「エリック、お湯を持ってきたよ!」
ロイとマチルダが、湯気を立てる木桶を抱えて戻ってきた。
「ありがとう。その桶をこの子の枕元に置いてくれ。あと、マチルダさん、塩も持ってきてほしい」
「わかったよ、すぐに!」
「エマ、心配だろうけど、今は父さんと一緒に食堂で待っていよう……」
「う、ん……」
エリックは配置された湯桶の中に、先ほどのハーブ入りの麻袋を投げ入れた。
そして、まじないをかけると、木桶の中の湯が微かに薄緑色の輝きを帯び、部屋の中にスーッとした爽快な香りのする濃厚な湯気が一気に立ち込めた。
「エリック、塩を持ってきたよ。……うわ、すごい湯気だねぇ? それに、なんだか胸がすっとする爽やかな香りだ」
「これで幾分か呼吸が楽になるだろう。マチルダさん、喉に痰が詰まってる。その子を横に向けて、背中を軽く叩いてあげて」
「あ、ああ、こうかい?」
マチルダが指示通りに少女を横向きにし、トントンと背中を叩く。少女が小さな喉を鳴らし、詰まっていたものを吐き出すと、ヒューヒューという苦しげな呼吸の音がわずかに和らいだ。
その隙に、エリックは空のガラス瓶に手際よく魔法で水を注ぎ、マチルダから受け取った塩を天秤で量るとガラス瓶へと落とした。さらに鞄から蜂蜜の瓶を取り出し、一匙すくって混ぜ合わせ、軽く振った。仕上げにまじないをかけると、微かに薄青い輝きを帯びた。
「マチルダさん、少しずつでいいから、ゆっくりとこれをこの子の口に含ませて、飲ませてあげてくれ」
「塩と蜂蜜……? こんなもので、本当にこの子の病気が治るのかい?」
マチルダが不安そうにガラス瓶を受け取る。エリックは机の上の薬草へ視線を向けながら、首を振った。
「これだけじゃ無理だ。弱りきった体に、まずは回復を促すためのものだよ。……本当の薬は、これから作る」
革鞄の奥から、薄い褐色の根とガラス瓶に入ったまるで雪や氷の結晶が固まったような、純白で美しい半透明の薄片を机の上に並べた。
「菘藍の根、それと龍の脳……」
菘藍の根を等間隔に、極めて精密な手際で刻み、小さな天秤の上で分量を計っていく。
その真剣な眼差しは普段の気弱なエリックからは想像もできない、ピリつくような空気を纏っている。
銅製の小鍋に魔法で水を満たし、刻んだ菘藍の根を投入する。その下の魔石ランプに火を灯し、じっくりと煮詰めていった。
「うん、良い感じだ」
部屋の中に、ハーブの清涼感とは異なる、独特な土臭さが広がり始める。
やがて、小鍋の中の液体は、漆黒のドロドロしたものへと変化していった。
そこへガラス瓶の中の純白の結晶を少しだけ手早く一匙すくい取り、小鍋の中へ溶かし込む。
最後に祈るようにまじないを唱えると、薄暗い輝きを帯びた。
「……できた」
エリックの手元には、小さな器に注がれた、ほのかに青みがかった漆黒の薬が残されていた。
「その薬を……この子が飲めば、助かるかもしれないのかい?」
マチルダが、ゴクリと息を呑んで尋ねる。
エリックは器を持ったまま、ベッドの上の小さな少女を見つめ、低く、重い声で応えた。
「あぁ、マチルダさん。……この子の生命力次第だけど……」




