三章・星の川 星の帯(3)
真っ暗な意識のなか、やわらかい何かに頬をなでられる感触があった。その動作はハフリの様子をうかがうように幾度も繰り返され、時折、吐息のようなものが顔にかかる。
身体がひどく重く、まぶたをあげようにも言うことをきかない。何があったのかも思い出せない。けれども起きなければと思う。
起きなければ。
けれど、身体が。
すると突然、ぬめりを持った何かに顔を舐め上げられて――ハフリの身体は反射的に飛び起きた。
同時、身体の節々に痛みが走り、顔をしかめる。骨は折れていないものの、地面に打ち付けたようだ。視界で軽く閃光が散り、めまいがする。
それらが引いた頃合いを見計らって改めて顔を上げれば、ウバタマの黒い瞳が、まっすぐにハフリを見ていた。その視線は、乗り手の少女によく似ていて――
「ツムギさん」
かすれた声で呟き、ハフリは立ち上がってあたりを見渡した。
草木のない地面を見つけると転げるように駆け寄って、崖の縁で膝をつき、身を乗り出す。
そこにあるのは深い闇だったが、目を眇めていくばくか経つと、夜目がきき、周りの輪郭が浮かび上がる。
先刻は咄嗟に崖だと思ったものの、実際は急な斜面と言った方が正しい。それでもハフリがいるところと底と思われる場所には、身の丈四、五倍ほどの高低差がある。ここから無防備なまま落ちてしまったら、怪我からは逃れられないだろう。
ハフリは縁に付いた腕に力を込め、できうる限り目をこらす。
するとその底に、明らかに地面とは違う影を見つけた。はっきりとは見えないが、丸まってうずくまっているようだった。
「ツムギさん!」
叫ぶと、影がもぞもぞと動く。白い何か――恐らく顔――がこちらを見上げる。
表情はうかがい知れなかったが、思いのほかしっかりとした声がハフリの耳に飛び込んできた。
「ウバタマに、荷がくくりつけてあるから持ってきて」
ハフリが後ろを振り向くと、寄って来たウバタマがあるじの言を察したのか身体を屈めた。その首には、布袋がかけられている。その上、落馬したときに落としたと思しき、ハフリの肩掛け袋までくわえていた。
「ありがとう」
受け取って首筋をなでると、早く行けと鼻を鳴らす。
袋を肩にかけ、崖の縁に立つ。角度こそあるものの、座った姿勢で滑るように降りていけば危なくはない。
ずるずると、砂煙を立たせながら慎重に降りていく。時折地面から突き出た石にひっかかりそうになったものの、最後は立ち上がって一気に駆け下りた。
「ツムギさん!」
数歩分の距離を詰めれば、はっきりとツムギが視認できた。
地面に座り込むツムギの、こちらに向けられた左半分の顔が安心したように弛緩し、すぐに挑戦的な笑みをはく。
「無事よ。あいにくね」
憎まれ口も忘れない。
この様子だ、きっと大きな怪我はないに違いないと胸をなでおろした――そのとき、ツムギの顔がすべて自分の方に向けられて。
ハフリの心臓は握られたかのように嫌な音を立て、身体は金縛りにあったかのごとくこわばった。
ツムギの顔の右側は、黒い何かに覆われていた。
何かがツムギの顎から滴り落ち、地面にぽつぽつと斑点を作る。彼女が左手に持っているのは腰帯で、真っ黒に染まっていた。
鉄臭がつんと鼻を刺す。
一瞬、頭が追いつかず、ツムギを見つめた。
これは――
「血が……!」
思わず声を漏らすと、「わかってる」と素っ気なくツムギは返し、血だらけの左手を差し出した。
「ほかのぬの、かして。ふくから」
先ほどとは違う力の抜けた口調に、ハフリは背筋を凍らせる。ツムギから流れ出ているものが、単なる液体ではなく、彼女の命そのものだと思い知る。
震えだす身体を自らの腕で押さえつけ、唾を飲み下した。
(どうにか、しなきゃ)
驚きおののく頭を必死で働かせながら、肩掛け袋のなかの本を思う。
この暗闇では本を見ることはできない。
浅く、息を吸って吐く。
思い出せ、思い出せ。何度も読んできたはずだ。
(頭の怪我は、傷が小さくても血がたくさん出るってあった。まずは、落ち着いて、)
書いてあることを思い出すのは、難しいことではなかった。
確かに、覚えている。
頭のなかで紙をめくる。指で文字を追う。
(圧迫――そう、圧迫だ。血を止めなくちゃ)
はっとしてツムギを見ると、ツムギは新しい布を待っているのか、傷口を押さえていない。それどころか、目に入るのが気に障るのか、袖口で顔を拭っていた。
ハフリは飛びつくようにツムギの持つ布を取り上げて、もう一度傷口にあてる。血を吸った布の重さに怯んだものの、叫ぶように声を放った。
「しっかり押さえてください!」
ツムギは驚きこそしたものの、言われるままに傷口をもう一度押さえた。
新しい布を探さなければ。
ウバタマから受け取った袋を開いて、手探りでそれらしきものを探す。一枚、それなりに厚みのある布を見つけて引き抜く。改めて見れば大きさも程よい。
「布、取り替えますね」
血まみれの布を放り投げ、新しい布を傷口と思われる場所に押し付けた。そのまましばらく待つと、じわりと血が滲みだす。血はまだ止まっていないようだった。
この暗さでは、傷口の大きさを確かめることはできない。
大きな傷ではないことを祈りながら、ハフリは布を傷口に押し付ける。止まって、止まってと心のなかで繰り返す。
ツムギもハフリとともに布を押さえていたが、手にはあまり力が入っていない。手に限らず、どこか怪我をしているならば、早く手当をしなければいけないだろう。けれども、ハフリの手はふさがっている。
(この布を額に固定できればいいのに)
ひたい、と。
口の端からこぼれた言葉に触発されるように、ハフリの片手はマトイからもらった肩掛け袋に伸びていた。
取り出すのは、極彩色の刺繍が施された額飾り。
それを止血している布の上から巻く。強く締めて、端と端を結ぶと、暗がりのなかでも鮮やかな刺繍に、黒い色が滲んだ。
忍び寄る感傷を頭を振って彼方に追いやり、ハフリはツムギと目を合わせた。
「どこか、痛いところとかありますか?」
ツムギは何か言おうとしたのか口を開くも、一度閉じ。弱っていながらも不本意そうな口調でこたえる。
「右手。落ちたとき身体の下にしいちゃったから」
ツムギの右手を、ハフリは自らの手で包み込む。
いた、と小さくツムギが声を上げた。
「すみません!」
ツムギは「別に」と返して、声を出さないように、くちびるを軽く噛みしめた。
もう一度ツムギの手を診ると、腕も指も向くべき方向を向いている。折れてはいないように見受けられた。
「特に痛いところは、どこですか?」
手首、とツムギが簡潔にこたえる。
(ねんざだと良いのだけれど。どのみち、固定はしておいたほうがいい)
待っていてください、と言いおいて、添え木になるものがないかとあたりを歩き回る。適当なものを一本見つけるとツムギのもとに戻り、自らの髪を結んでいた紐を解き、腕に木を結びつけて固定した。
ふと顔を上げれば、ツムギと目が合う。額にあてた布から、血は滴っていなかった。
止血できたのだ。
どうしようもなく安堵してしまって、ハフリはふにゃりと笑みを浮かべた。
「気持ち悪いわよ」
ツムギが顔をしかめて言い放つも、まったく気にならず、ハフリはほほえみ「よかった」とつぶやく。
一段落ついたところで、ウバタマの荷を漁りながら、使えそうなものを取り出していく。水筒と干し肉、あとは布。
血だらけのツムギの顔を見て、拭いてあげなければと考えていると、
「あんた、どこでこんなこと覚えたの?」
ツムギが尋ねる。
えっと、とハフリはちらと自らの肩掛け袋に目をやって、
「父にもらった本に書いてあったんです」
「その袋のなかの? 小屋の脇で読んでいたやつ?」
うなずくと、ツムギはハフリから目を逸らす。
何か考え込むように遠くを見て、一度目を眇める。そして、ハフリに勢いよく向き直り、
「あたし、あんたが嫌い」
何度か口にした言葉を、改めて発し、けれど続けて、
「でも、助かった。……ありがと」
小さな声は、けれど不思議なほど明瞭なかたちをとってハフリの鼓膜を揺らし、やわらかく内側に馴染んでいった。
導かれるように顔をほころばせると、みつ編みがほどけて、夜の風にふわりとそよいだ。
「あんたも手、拭いたら。あたしの血で汚れたでしょ」
水を含ませた布で顔を拭いながら、ツムギがハフリに声をかける。出血も止まり気分も良くなってきたのか、口調はいつもと変わりない。
ツムギが差し出した布を、受け取ろうと手を伸ばす。
しかしツムギは思い直したように布を持ち直し、
「拭いてあげるわ」
「でも、ツムギさん右手が」
「片手でも拭けるわよ」
よこしなさい、と睨まれればハフリは従うしかない。
ツムギは布で右手をくるみ、ハフリの手を掴む。まず親指を拭き、次に人差し指。小指までいったあと、手のひらをぬぐう。
じくりとした痛みが走り、ハフリは肩をはねさせた。
ツムギが、呆れたようにため息をつく。
「こんなことだろうと思ったのよ。たぶん、蜜蝋握ったときでしょ。大したことはないと思うけど、あとで他の布を濡らして握っときなさい」
その口調はやさしく、姉が妹に言い聞かせるかのようで。
ハフリがきょとんとツムギを見つめると、ツムギはきまり悪そうに付け足した。
「なんか危なっかしいんだよね、あんた」
うまくいえないけど、と。
そしてふいに「年、いくつなの」と尋ねる。
「十六です」
「じゃあスオウと同い年なんだ」
「ツムギさんは?」
「あたしは十七」
えっと、とハフリは少しどもったあと、
「……ソラトは?」
「十八ね」
ハフリの手を拭きながら、他愛ない話をツムギは続ける。
ツムギには妹もひとりいること。生意気盛りで最近言うことを聞かないこと。スオウは弓射が得意で、ソラトは料理がうまい。ふたりとは幼なじみで、幼い頃からずっと一緒に草原を走り回っていた――
ツムギの口調は明るく、楽しそうだ。ことさら、ソラトのこととなると饒舌に聞こえるのは、気のせいだろうか。
ちらとツムギをうかがう。
拭いきれなかった血で汚れてはいるものの、彼女の顔立ちはよく整っている。少しつり上がった眉も、気の強そうな瞳も魅力的で。誰にだって、ソラトの目にだって、そううつるはずだ――そう思うと、なぜか胸が痛んで、そんな自分に戸惑う。
けれど、痛みはすぐに引いていった。
ツムギはハフリの手を、強すぎない力で慎重に拭いてくれる。散らばった紙だって、丁寧に集めてくれた。
彼女と出会ってたった一日。それなのに、受け取ったものの多さに驚く。
――こんなところでこそこそして、なんになるの? あんたは何がしたいの?
朝はただ怖かった彼女の言葉が、意味を帯びて、ふたたびハフリに問いかける。
(わたしのしたい、こと)
正直、まだわからない。
けれども、もう少しで掴めそうな気がした。
無意識に指に力を込めると、ツムギが顔を上げた。
「痛いの?」
いえ、とこたえると、自然と顔がほころんだ。
やさしいな、と思う。
そして、すきだなと、こうなれたら素敵だろうな、と。
「あんたさ、」
ツムギが、思案げにハフリを見つめる。
首を傾げると、「あー」と曖昧な声を漏らして、
「何でもない。気にしないで。っていうか、にやにやし過ぎ。気持ち悪いから」
ぶっきらぼうに言い放つ。
「あとさ、前髪切りなよ、うっとうしいから。もしくはまとめたら?」
はぐらかすように付け足された言葉に、首をかしげる。思えばスオウにも同じことを言われた。
完全に前におろすと、目を覆ってしまう長さの前髪。慣れてしまっているせいか普段は気にならないものの、周りから見るとそんなに気にかかるものなのだろうか。
ハフリの胸中を察したのか、そうでもないのか。ツムギはこたえにならないこたえを返した。
「見えるものも、見えなくなるわよ」
それは、どういう。
ハフリが口を開きかけたそのとき、風が変わる。
地面に近い空気がざわめき、落ち着かなくなる。先刻の出来事を思い出し、ハフリは思わずツムギにしがみついた。ツムギの身体も若干こわばっているのがわかる。
さわさわと木の葉が鳴く音がして、髪が天に向かってなびく。空に向かって吹く風が生まれはじめていた。
あのときとは違う。
ツムギもまた、「ちがう」とつぶやいた。
「これは、天馬よ」
「てんま?」
ツムギが空を見つめて返した。
「突風のことをそう呼ぶの。天帝さま――あたしたちがお祀りする神様が乗る、天翔ける馬。風を起こして空へと駆ける。そのとき起こる風は」
雲を割るのよ。
そう言って、ツムギは左手でハフリの腰を引き寄せた。
同時、大きな音とともに地面から噴き上がった風が、すべてを煽って空へと向かう。砂塵から逃れようと目を閉じる。
暗い視界。
狩人が現れたときより速さも強さも勝った風に、髪も衣も激しくなぶられている。けれど不思議と、恐ろしさはなかった。
火蜥蜴の吐く分厚い雲を一瞬でわける、疾風の馬。
その嘶きを聴いたような気がして、ハフリは小さく身を震わせた。
ゆっくりと風が収まり、降りてきた髪が顔にかかる。
けれどその前髪は、ツムギの指先にのかされた。
「目、あけてみなよ」
ツムギが興奮した様子で続ける。
「あんた、ついてる。滅多にこんな風吹かないもの。ほら、空が見える!」
まぶたを持ち上げる。
一度目をつむったせいか、夜目がきかなくなり、辺りが先刻より数段暗く見えた。
見えるようになるのを待ちつつ空を仰げば、透明な風が吹き抜けていったのがわかった。空気は静かで、ぴんとした張りを持っている。
天の馬が地上にあったすべての空気をさらって入れ替えたようだ。鼻腔から肺腑に流れこむ空気は清く、視界は一分の霞みもなく澄み渡っている。
「見える?」
ツムギが空の一点を指さす。その方向に目をやれば、たしかに雲が割れていた。
手をかざせば消えてしまうほどの大きさ。けれど確かな夜空の色がそこにあった。
雲に覆われた空では、日が暮れても見出せない、深く澄んだ、藍色。
藍色のなかで、存在を主張するように星々がきらめいている。星の輝きは、光を弾く雫の輝きにも似ていて、はたまた火の粉のようにも思えた。
さらさら、きらきらと星がまたたく。とくん、とくんと。おのれの心臓の鼓動が、星のまたたきに重なる。
自分と星の心音が、しじまをやさしく包み込む。
きっと雲がすべて消えたら、そこには星がたくさんあるのだろう。空を横断するように存在する、星の群れ。
星の川、と。
森では星の群れのことをそう表した。天空を流れる川。きめ細かく繊細な星のあつまり。
「星の川、ですね」
思わずそうつぶやくと、ツムギが「それって、星のあつまりのこと?」と尋ねる。
首肯すると、「へえ」とツムギは声を漏らした。
「あたしたちは、星の帯って言うの。誰よりも優れた弓の名手だけが、天帝さまから授けられるのよ」
ほしのおび、とハフリは繰り返す。
たしかに、そうも見えるかもしれない。
夜空を見上げながら、想像する。
きっと星が帯になったら、絹よりもたやすく指が滑り、紗よりも繊細で軽いものになるだろう。川ならば、その川には光をはらんで、時に弾き輝く澄んだ水が流れているに違いない。
同じ空を見上げて、違うものを見ている。
それは不思議なことのようであり、あたりまえのことだった。
「星の帯、ですか」
思わず空に手を伸ばしていたけれど、届くはずがない。ツムギが「ばかねえ」と苦笑まじりに呟いた。
小さな夜空を見上げながら、ハフリはふと考える。
翳りのない水の底が見えるように、澄んだ空気と星明かりのずっとずっと向こう側に、この藍色が――空の果てがあるのだろうか、と。
もちろんどんなに目を凝らしても、空の果てがどこにあるかなんてわからない。空はただ泰然と、おわりなんてないかのように存在している。
すいこまれそうだった。
目がそらせないまま、藍色に溶けてしまいそうだ。
自分の存在が、とてつもなく小さいものに思えて、怖い。
なのに、夜空の欠片は、胸が痛くなるほどにきれいだった。
ハフリとツムギの間に言葉はなくなり、ふたりそろって、夜空が消える最後の一瞬まで、息を詰めて見つめ続けていた。
無慈悲にも、雲は少しずつ、けれど確実に空を覆っていき、音もなく、空は雲に閉ざされる。
ふうとどちらともなく息をついた。そして、顔を見合わせる。
ツムギが一瞬目を逸らし、ちらと自らの額――傷にあてられた布と額飾りを見た気がした。
じっとツムギに見つめられたじろぐと、
「そういえばあんたは、どこの民なの」
「歌鳥の民……です」
ふうん、と。ツムギは訊いた割に興味のなさそうな相槌を打ち、あくまでも素っ気ない口調で付け足した。
「山烏の民がもうひとつ民の名を名乗るのは、自分たちに継がれ流れる多くの血を認め、忘れないためよ」
だからあんたもそうしなさいと言われたと思うのは、図々しいだろうか。
けれど、
(わたしは、歌鳥の民の、ハフリ)
胸のなかで言葉にする。
ぶわりと湧き上がった感覚に、ハフリは身を震わせた。
「寒いし、こっち寄りなさいよ。寝よ。明日にはきっと誰かが探しにきてくれる」
ツムギがハフリの肩を引き寄せる。
ツムギにもたれかかり、目を伏せ、自分の左胸に手をあてがった。
(わたしは、歌鳥の民のハフリ)
とくとくと脈打つ心臓を手のひらに感じながら、
(歌鳥の民なんだ)
繰り返す。
目尻から静かにこぼれ落ちたひとしずくは、衣越しに伝わるツムギのぬくもりと、同じ温度をしていた。




