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三章・星の川 星の帯(2)

 ウバタマに騎乗し、ツムギの腰に手を回す。あたりはすっかり闇に包まれ、周りの景色も判然としない。スルガとマトイは泊まっていくことを勧めたが、それをツムギが頑なに拒否し、帰ることになったのだった。

 当のツムギは始終不機嫌な表情のまま、落ち着きなさそうに手綱を握ったり振ったりしていた。

 マトイは馬上の二人を見上げ、


「遅くなってごめんなさい。思っていたよりも、時間がかかっちゃって……」


 申し訳なさそうに身をすくめる。それにハフリは首を横に幾度も振った。そして深く頭を下げる。


「ほんとうに、ありがとうございます」


 ハフリが腕に抱くのは、砂色をした布製の肩掛け袋。マトイが本を入れるためにと譲ってくれたものだ。袋の端にはフゥに似た青い鳥が刺繍されている。

 収まっているのは、マトイにもらった白い編み物と額飾り。そして、二冊の深緑の表紙をした本だ。

 布の上から、本をなでる。

 たとえ見た目が変わっても――否、スオウとツムギに助けられ、マトイに直してもらえたからこそ、この本が父の形見である以上に、大切なものだと思えた。

 すべてのことが、ほんとうにあたたかくて、うれしい。けれど、その気持ちを正しく言葉にすることができなくて。ただ「ありがとうございます」と繰り返す。

 マトイは照れたようにはにかんで「喜んでもらえて嬉しいわ」と言う。そして、もう一つ何かを、今度はツムギに差し出した。

 それは、『ワシ』を木枠に貼りつけて球体状にしたものだった。マトイの持つ棒につながっており、ぼんやりとした光を放っている。なかに蜜蝋の蝋燭がともっているのだ。


「これ、持っていって。いつもは明るい時間帯に返してあげられてたけど、今日はもう真っ暗だから」


 しかし、ツムギは目をすがめて一言。


「いらない」


 にべもない返事であったものの、マトイも慣れているのか苦笑まじりに、


「じゃあハフリちゃんにあげるわ」


 しれっと馬上のハフリに棒を握らせた。

 棒先に吊るされた球体が、淡い光をまといながら小さくゆらゆらと揺れる。けれども灯りは消えない。世のなかにはこんな道具もあるのだなあと、ハフリは感心する。これなら、夜道も多少は安全に進むことができるだろう。

 今度はスルガが歩み寄って、手のひら大の黒い石の球体をツムギに差し出した。


「ほらよじゃじゃ馬、これも持ってけ」

「いらない」


 スルガは大仰に肩をすくめ、おどけたように返した。


「じゃあ俺もハフリちゃんにあげることにしよーっと」

「ちょっと!」


 ツムギが慌ててスルガの手からその物体をひったくった。苦い表情を隠しもせずに悪態をつく。


「このとろい子に持たせたら、あたしが大変な目に遭うわ。ホント、ろくなもん作らないわね」


 スルガはこたえた様子もなく、犬歯を見せて笑った。


「まあそう言わずに」

「うちに何個溜まってると思ってんの? そろそろ全部埋めて処分してやるんだから」

「ひでーなあ」


 そのやり取りにハフリがきょとんとしていると、衣の裾を引かれた。マトイだ。

 何かを言いたそうに背伸びをする彼女に、できる限り耳を寄せる。


「また、会いましょ」


 あたたかい吐息が耳をくすぐる。心までくすぐったい気持ちになる。ハフリがうなずくと、マトイは声量を抑えた声で一言付け足した。


「ツムギをよろしくね」と。




 昼間は草原を突っ切ってここまできたものの、帰りは遠回りをして、山の裾野に広がる森の側を進む。

 森といってもほとんどの木は葉を落とし、常緑樹ですら緑を褪せさせたまま、乾いた枝葉を伸ばしている。風が吹くたびに森は悲しげにからからと歌い、時折野鳥の声を混じえては、空恐ろしく響く。

 ハフリは光を灯した球をぶら下げた棒を右手に持ち、左手でツムギの腰に手を回していた。馬に乗るのには多少慣れてきたものの、片手では身体の均衡が崩れやすく、ぐらぐらとしてしまう。その度にツムギに怒られはしないかとひやひやするものの、ツムギは何を言うでもなく手綱を繰っていた。

 ツムギの表情はうかがい知れない。灯りに照らされた彼女の髪は、まっすぐではあるものの、毛先があちこちに跳ねている。右に左に、後ろに前に斜めに跳ねるそれらを、なんとなくハフリは見つめていた。

 何かがつかめそうなのにつかめない、じれったい気分が胸にたゆたっている。

 ふいに前方から「ねえ」と声をかけられた。


「マト姉と、なに話してたの」


 振り向くことなくツムギが問う。ハフリは首を傾げかけたものの、はっとして言葉を紡ぐ。


「そんなにお話はしなかった……んです。本を直す間は、集中してたみたいで。話しかけちゃいけないかなって思って」


 あー、とツムギが声を漏らした。心当たりがあるのか、くぐもった声で「そーいうひとなのよ」とこぼす。拗ねたような口調だった。

 沈黙。

 無言で続きを促されている気がして、ハフリも続けて口を開く。


「直してもらっている間は、ずっとマトイさんが作った編み物とかを見ていて。ほんとうに、きれいでした。ひとつもらったんです。あ、あと――……ツムギさんの作った膝掛けも、見ました」


 ツムギの身体が小さく震えた。

 ハフリはごくりとつばを飲む。外に出かけた言葉が、うろうろと喉をさまよった。


(わたしは、あの膝掛けが好き。たぶん、マトイさんの作ったものよりも)


 けれども、その理由をハフリは言葉にできない。自分でもまだわかっていない。

 どうして、ツムギのものに惹かれるのだろう。全体を見るならば、すべてにおいてマトイの方が優れているのに。

 あの色づかいが好きなのか、あの模様が好きなのか。それとも、他のなにかが好きなのか。それをはっきり言葉にすることができなければ、ツムギを傷つけるような気がした。

 心のなかで「ごめんなさい」と謝る。結局何も言えないなら、口にするべき話題ではなかったのだ。


 森が鳴く。


 落ち葉が風に遊ばれて転がる音がする。夜の空気は冴え冴えとしていて、逃げることを許さないように張りつめている。やわい光に照らされる世界の向こう、森の奥、先の見えない闇をハフリはしばし見つめ、言い訳するように思う。


(逃げない。逃げたりしない。ちゃんと、伝えたいことを、伝える。ただ今は、見つからないだけ)


 自らの失態で作ってしまった沈黙に身体をこわばらせていると、


「マト姉の、」


 ツムギがぽつりと呟く。


「マト姉のつくるものはさ、すごいでしょ」


 声にわずかに含まれた、空気をぴりと震えさせる仄暗い感情の正体を、ハフリは知っている。

 けれどもその言葉はまっすぐで。最後にはすべてを乗り越えて、凛と響く。厳しい言葉をぶつけたときでさえ、ツムギの言葉には屈折も裏表も感じられなかったことを思い出し、ハフリは素直に「すごかったです」とこたえた。

 ツムギの笑う気配がする。それはなかば苦笑ではあったものの、まとう空気はやわらかく、マトイを想起させた。やはり姉妹なのだなと実感する。


(姉妹、か)


 ウバタマにゆられながら、自分のことに想いを馳せる。ハフリには、姉妹がいない。そして、今やフゥ以外には家族もいない。

 森は豊かであったし、食べ物や住む場所に困ったことはない。その点でいうなら、この村の比ではないほどに裕福だった。

 けれども今、森に帰りたいとは思わない。たとえ役立たずであっても、そのことを罵られても、ここにいたいと思う。いられるように変わりたいと、思う。

 少し前までは、とにかく居場所が欲しくて、誰でも良いから自分を認めて欲しくて、それでいっぱいいっぱいだった。けれど何故だか、今はいくらか落ち着いて考えることができる。


(わたしは、山烏の村にいたい。他のどこでもなくて、ここにいたい)


 乾いた空気も、枯れた草原も、曇った空すらも、いとおしい。

 空気が乾いていれば、水をありがたく感じる。枯れた草原は、鮮やかな刺繍にあたたかみを持たせてくれる。たとえ曇っていようと、この地の空は樹々に閉ざされていた森よりもずっと広く、息がしやすい。

 そしてここには、たくさんのひとのぬくもりがある。

 それに――ソラトがいる。ハフリをここへと連れてきてくれた少年。獣のようにしなやかで、強いひと。

 乾きかさついた大きな手と、その温度を思い出す。


(あいたいなあ)


 ぽつりと。けれど強く思った。

 今どこにいるのだろうか。また寝る間を惜しんで、雨を降らせる(すべ)を探しているのだろうか。

 空を仰いでも、そこにあるのは月も星も見当たらぬ黒い空間だけで、ティエンの金色の輝きがあるはずもなかった。

 甲高い音を立てて風が吹く。ハフリは棒を落とさないよう握り直し――風の冷たさに思わず身を震わせた。

 二、三回咳がこぼれる。喉が痛む。風邪を引いたのかもしれなかった。


「寒いの?」


 思いもかけずツムギに声をかけられ、「だいじょぶ、です」とたどたどしい言葉を返すと、「あっそ」と素っ気ない返事があった。


(心配して、くれたのかな)


 そんなことを考えつつ、「あの」と口を開く。


「どうして、森の傍を通るんですか」

「日が暮れると、やつらが来るから」


 『やつら』といわれても、ハフリはそれが誰のことなのかわからない。首をかしげると、やや苛立ったようにツムギは言葉を放る。


狩人(かりうど)。人攫いよ」


 ひとさらい、とハフリは小さく繰り返した。そういえば昼にスオウが口にしていたことを思い出す。


 ツムギは「あんた、南から来たんだっけ」とつぶやいて、


「やつらは北から来るのよ。あんたが暮らしてた方には、まだ辿り着いていないのかもね」


 確かに、森ではそんな噂すら聞いたことがなかった。

 そもそも歌鳥の民は『森の外では生きられない』とされていることもあり、外の情報はなかなか耳に触れない。森は非常に閉鎖的で、虎鶇の民が物資を売りにくる回数だって限られている。


「……山烏の民でも、さらわれた人がいるんですか?」


 わずかに震えた声。それに気づいたのだろうか、ツムギは若干声量を上げた。


「いないわ。あたしも、一度追われたことがあるけど逃げ切った。山烏の民はこの近辺の他の鳥の民と交流があるから、情報にも事欠かないし、この道を選んだのだってあいつらを避けるためよ」


 胸をなでおろすと、ツムギが呆れたように言った。


「山烏の民は、あんたみたいにとろくさくないんだから。心配なんて、しなくて良いのよ」


 それに、と続けて、


「やつらが近づいてきたら、すぐにわかるんだって。鳥も、獣も、風や樹木すらも、やつらの気配を機敏に感じ取って、オカシクなるから」


 その口調は、必要以上に明るくて。彼女がハフリを慮ってくれていることを確信する。


「だから、変だと思ったらすぐにウバタマを走らせる。相手にする必要なんてない。逃げる。イグサさまが言ってたの。『鳥の民の翼は戦うためにあらず。巣を守り空へ羽ばたくためにあり』って。あいつらはその誇りをなくした愚か者どもだって」


 そしてふと、真面目な声で一言付け足した。


「……ううん、もしかすると、鳥の民ではないのかもしれない。狩人は、あたしたちと何かが根本的に違う気がする」


 ――鳥の民、ではない。


 鳥の名を冠するひとびと以外が、この世界にいるかもしれないことなど、正直、想像ができない。鳥の民でないとするなら、狩人と呼ばれるものたちは一体何者なのだろう。

 考え込んだ沈黙を、ハフリが不安になって口をつぐんでいると思ったのか、ツムギが若干焦ったように声を張り上げた。


「で、でも、大丈夫よ! もう村だって見えてくるはず。あいつらは人里近いところには現れない――」


 瞬間。ツムギが言葉を打ち切って、弾かれたように空を仰いだ。

 突如、きん、と。激しい耳鳴りに襲われ、ハフリは顔を歪める。


 風が止まる。

 風が消える。

 風が、死ぬ。


 冷たさも温さも持たない空気が、音も無く世界を満たした。その空気は、ハフリの肌の上を這い、まとわりつき、離れない。離れてくれない。

 身体の奥底から競りあがってきたのは、強い強い嫌悪感だった。ハフリのすべてが、ハフリの理解を超えて、何かを拒否していた。

 鼻で息をしたら死臭がする気がして。口で息をしたら、身体の内側から腐っていく気がして。


 息ができない。

 身動きもできない。

 頭も、働かない。

 永遠に感じられた一瞬。


 そして――轟音が耳を貫く。


 それは、鳥達の鳴声と羽音、獣達の咆哮と地を蹴る音だった。刹那、風は停滞していた空気を押し流すかのように吹き荒れはじめ、枯葉が風の唸りとともに夜空に舞い上がる。地面すらも揺れている気がした。

 ハフリはツムギにしがみつき、震えるしかない。何が起こっているのかもわからない。

 ツムギが呆然とした様子で言葉をこぼす。


「うそ。なんで」


 ツムギを叱咤するように、ウバタマがぶるるといなないた。

 その声にツムギは顔を上げ、背筋を伸ばす。


「しっかり、つかまって」


 ハフリのほうを見やって振り絞るように声を放ったかと思うと、ツムギはウバタマの脇腹を強く蹴った。

 村へ向かって直進する開けた場所を避け、ツムギは森のなかへと手綱を繰った。

 ウバタマの走りは、昼間見て感じた以上に荒々しい。身体が激しく上下し、時折腰が浮く。細かい障害物に目もくれずに走るため、時折枝葉が髪に絡み付いた。

 ハフリは棒を握りしめ、ツムギの背に顔を押し付けしがみついていた。棒の先の球体が、激しく揺れる。灯りが消えないことには助かったが、この灯りで相手に居場所が知れるかもしれない。何が最善なのか、考える余裕がない。


 森のすべてが『オカシク』なっていた。


 すべての音が混ざり合い、威嚇するような、はたまた悲鳴のような音を作り出す。さらにそれにウバタマが風をきる音も加わって、耳が壊れてしまいそうだった。

 ツムギの舌打ちとともに、耳に蹄の音が飛び込んでくる。後ろに何者かが、いる。

 ハフリは振り落とされないように注意をしながら、後方をうかがった。

 一頭だけだ。まだ距離はある。今日の昼間と似た状況。追ってくるのはウバタマとよく似た、漆黒の馬。

 けれども、その馬は明らかに異常だった。

 距離があってもわかる、乱れた息づかい。闇夜にふたつ浮かび上がる白目。狂ったように走っている。否、走らされている。

 乗り手は、黒い服に身を包んでいる。覆面のようなものを被っているようで、それ以外はよくわからない。闇に溶けて見えなくなってしまいそうだった。

 騎手が手綱から手を放し、棒のようなものを背中から引き抜き、つがえる。

 何かがきらめき、まっすぐに飛んでくる。


 それは、――矢。


 距離があるため矢はウバタマに届かず落下していったが、安心できるはずもない。

 矢は、生きるものを傷つけるもの。いのちを奪うものだ。

 歌鳥の民の主食は、植物。もちろん動物も食べるが、それは年に一度、祭の時だけ。その時に使われるのが矢というもので、ハフリには炎と並んで神聖なものだった。それが、自分たちに向けられることなど、考えたこともなかった。

 轟音のなか、甲高い悲鳴を聞いた気がした。鳥のものなのか獣のものなのかはわからなかったが、矢が害意を持って放たれていることだけはわかる。


(どうして、こんなことを)


 山烏の民の主食は乳製品。次いで、動物――家畜だ。正直、今でも食べるのは気が進まない。けれどもハフリは、殺された動物達が血の一滴まで大切に扱われることを知っている。血は腸に詰められ、肉は干して日持ちするようにする。女達は調理をする時に祈りの言葉を捧げ、食べる前には皆で手を合わせて感謝する。

 いたずらに、あるいは悪意をもって奪われるいのちなど、あってはならないのだ。

 だからこそ、今後方から放たれる矢が、弓を引く人が理解できない。理解できない故に、恐怖はさらに増し、身体ががくがくと震える。

 射られてしまったら。

 あるいは、捕まってしまったら。

 震えるハフリに、ツムギが後ろ手に何かを突きつけた。前を向いたまま、固い声を放つ。


「白い紐に火を移して、思い切り後ろに投げて」


 それは先刻スルガから受け取った、石のような物体だった。確かに、一カ所だけ白い紐が出ている。

 ハフリは火が灯る球体をどうにか片手でたぐり寄せる。

 火をつけるには、どうやっても両手を放して支えのない状態にならなければいけない。

 恐怖に、全身から汗が吹き出る。

 もし、振り落とされてしまったら。

 そう思った刹那、ウバタマが跳躍し、ぐらりと身体が傾いだ。


(怖い。怖い怖い。でも、逃げないと。早くしないと)


 早くと思っているだろうに、ツムギは何も言わない。

 ぐっと奥歯を噛みしめて。できる、できる。やらなくちゃと、言い聞かせる。

 球体のなかをのぞきこむ。底の皿のような場所に、大きい蜜蝋の蝋燭がひとつ灯っていた。

 手を近づけると、当たり前ながら熱い。反射的に手が引っ込んだが、怖じ気づくわけにはいかなかった。蹄の音は少しずつ、けれども着実に近づいてきている。

 手を伸ばし、蜜蝋の蝋燭を掴む。皮膚が焼けるかのような感覚に、悲鳴をあげそうになる。堪えた拍子に、蜜蝋の蝋燭を残して球体と棒は馬上から落ち、闇に吸い込まれていった。

 怖いし、熱い。

 じくじくと手のひらに痛みが走る。一瞬にして吹き出た汗が頬を伝う。

 足の内側に力を入れる。震える身体に鞭打って、ついに両手に蜜蝋の蝋燭と黒い石を持った。

 ぐらぐらと身体が揺れる。支えるものがないことを体感する。なるたけ前に重心を傾けて、火を消さぬよう、胸元で抱え込むようにして持った。

 白い紐に、火をつけるだけ。

 たったそれだけなのに、身体はなかなかいうことをきかない。炎が揺らぐたびに、心臓が縮むような感覚を味わう。何度も何度も、紐と炎はすれ違う。

 手のひらの痛みも忘れるほどに、集中する。

 やっとのことで、紐に炎が届く。なかなか、火は灯らない。

 早く、早くついて、と祈るように思う。

 ぽっと、紐の先に火が灯った。

 やった、声が漏れる。するとツムギが叫んだ。


「早く! 早く後ろに投げて!」


 黒い石を後ろに向かって思いっきり振りかぶり――投げた。

 反動で身体を傾がせ馬から落ちそうになったハフリの腰を、ツムギが片手で引き寄せる。

 慌ててツムギにしがみつく。

 後ろは見えない。


 一瞬、音が消えた気がした。

 否、それはあまりに大きな音だったのだ。


 あれだけ騒いでいた森の音達を、すべてねじ伏せるほどの、轟音。

 後方から砂塵が巻き上がる。耳が麻痺して、なんの音もとらえることができない。身体がびりびりとした空気の震動を感じ取る。

 何かが――恐らく、あの石が破裂したのだ。それも、とてつもなく激しく。


 ゆっくりと音が世界に戻ってきたころ、後方から蹄の音が消えたことに気づく。

 蜜蝋の蝋燭もなくなり、あたりはひたすらに闇に包まれ、ぼんやりとしか周りの様子はわからない。

 けれども、不思議と怖くはなかった。

 すべては異変の前にもどり、やわらいだ風が頬をなでていく。


「多分、逃げ切れた。道がわかり次第、村に帰る」


 ツムギが浮かせていた腰を落とそうとし、はっと硬直した。

 ウバタマ、と焦ったように口走る。


「ウバタマ、落ち着いて」


 先刻の出来事に、そして音に驚きおののいていたのは、ハフリたちだけではなかったのだ。


「ウバタマったら!」


 そうツムギが叫んだ刹那。

 ふいに。本当に突然に、前が開けた。


 樹がない。

 草もない。

 地面もない。

 暗い視界のなかでも理解する。

 つまりそこは、崖だった。

 ぱっくりと口を開けた底の見えない暗がりが、目の前に待ち受けている。


 ツムギが思い切りウバタマの手綱を引いた。ウバタマは急旋回し、大きく前肢をあげる。

 身体が宙に放り出され、ツムギの腰に回していた腕がほどける。

 夜空色の瞳と目が合った。

 ほんの一瞬のことなのに、その瞳のなかに色々な感情が浮かんでは消えるのを、ハフリは目にした。

 ツムギが何を感じ考えていたのかは、わからない。

 ただ、身体を思い切り突き飛ばされた。――崖と反対の方向に。


 咄嗟に伸ばした手は届くことなく。

 ツムギの姿が、闇に吸い込まれる。

 地面に叩きつけられる感覚とともに、ハフリの視界は完全に暗転した。

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