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四章・ひとつの笛(1)

 まぶたを持ちあげると思いのほか明るい世界に迎えられ、ハフリは目を瞬かせる。

 光をはらんだ雲が、広がりのあるまばゆさで空を包み込んでいた。淡い光をはなつ雲から降り注ぐかすかな熱を、肌が受け取る。

 幾度かまぶたをこすった末、おのれの頭がツムギの腿の上にあることに気づく。ツムギはまだ眠っているようで、かすかにいびきを交えた寝息を漏らしていた。その表情は穏やかで血色も良く、額に巻かれた布と額飾りにも乾いた血が滲んでいるのみだ。

 ツムギの太腿からそっと退いて、頭を地面に移す。なんとなく動かそうとしたくちびるはかさつき、口内はねばついていた。水は昨晩で使い切ってしまっていたが、不安や焦燥は不思議とない。

 風は穏やかで、昨日の出来事が嘘のようだった。

 目を伏せると血潮が透ける。しばしの間をおいて開くと、世界が白んだ。まばゆさに顔を背けようとしたそのとき――視界の端で星がきらめいた。

 反射的に飛び起きて、空を仰ぎ、目を細める。

 既視感を覚えると同時、あれは翼をもつ金色の獣だと、直感する。


「ソラト」


 思わず口をついたのは、獣の名ではない。姿形を捉えたわけではなかったが、確信と歓喜が胸を占めた。

 けれど、ここから叫んで、彼に声が届くだろうか。手で喉元を押さえ、自分に問いかける。

 叫べるの?

 いつもあんな小さな声しか出せないのに、と。

 視線をおろおろとさまよわせ、結局、ツムギの肩をそっと揺すった。数回揺さぶると、ツムギはうっすらと目を開けて、「なに」と不機嫌丸出しの声で応答する。


「空に、たぶん、ティエンが」

「ほんとに!?」


 ツムギが勢いよく身を起こし、立ち上がる。俊敏な動作にハフリが驚いている間に、彼女は大きく空気を吸って、全身をふるわせ、空を割るような声で叫んだ。


「バカスオウー! 聞こえてるんでしょー!」


 スオウ、とハフリは小さく繰り返す。彼も上空にいるのだろうか。帰らないハフリたちを探しに来てくれたのかもしれない。

 思えば、赤鷹の民の優れた視覚と聴覚は、探索にはもってこいのチカラだ。といっても、ツムギの声量なら常人の聴力でも十分に聞き取れそうであったが。

 ツムギの声の残響が肌をなでていった。空を見上げれば、金色の星のきらめきが増す。

 翼が、蹄の前肢がわかる。騎乗しているのは、赤髪の少年と――焦げ茶色の髪の少年だった。

 金色の翼が上下するたび、小さく砂塵が舞い上がる。

 着陸する前に飛び降り、駆け寄ってきたのはスオウだった。瞳孔が普段の赤茶色ではなく、炎よりも濃く、血の色よりも鮮烈な紅に染まっている。


「スオウ、目が」


 驚きのあまりハフリが呟くと、


「あー、これはチカラを使うとこうなんの。すぐ引いてくから、気にせんといて?」


 スオウはぺたぺたとハフリの肩や頭を触り、顔をのぞきこむ。


「怪我ない? 大丈夫?」

「だい、じょうぶ」

「そっか」


 スオウは微笑んだかと思うと「あーよかったホント良かった」と大仰なまでに声をあげる。


「ちょっとあんた、こっちみなさいよこっちを」


 横で顔を引きつらせるツムギの額、そして固定された右手をスオウはまじまじと見つめて、


「おー、無事でなにより」


 こともなげに声を放つ。ツムギの眉がつり上がった。


「これが無事に見えるわけこの大馬鹿」


 もーいいソラトに心配してもらうから、と頬を膨らませると、ツムギは足取りも軽やかにティエンの方へと向かっていった。

 ハフリも、ツムギが向かった先を目で追おうとしたが、視界の端に何かがひっかかり、視線を戻す。

 動いたのはスオウの手だった。スオウは片手を持ち上げ、けれど指先で空だけを掴んで、ゆっくりと下ろす。同時、ふうと息をついた。その響きからは確かな安堵と、一抹の乾き――寂しさに似たものが感じられて。

 思わずスオウの顔をうかがい見れば、彼はツムギの駆けていった方向、否、彼女自身を見つめていた。やさしく目を細め、けれど瞳に少しの影を落として。

 その影が、光が遮られできるものではないことをハフリは知っている。

 内側から湧いてくる影。森にいた頃、水面に映った自分はいつも、瞳にあの影をまとわせていた。


「スオウ」

「え、なに?」


 お互いきょとんと目を合わせたものの、先にスオウが破顔して、とんとハフリの背を押した。


「なーに遠慮しとんの。いかな」


 反動で一歩前に進む。

 思考が切り替わって、全身の感覚が数歩先に傾けられる。しかし、それ以上動くことができなくて、木偶のように突っ立っていた。

 ほどいたままの髪が風に揺れ、視界を遮る。なのに、その間から見える景色が、そのひとが、ひどくひどく鮮明で。どうして良いのかわからなくなる。ただ、見つめることしかできなかった。

 硬そうであるのにしなやかに風に揺れる焦げ茶色の髪。心なしか、目の下の隈は濃くなっている気がした。

 けれども、瞳は。

 樹の蜜のような色と艶を持ったその瞳は、相も変わらず強い光を宿していて――ああ、このひとはいきているんだ、と。当たり前のことを、強く意識した。

 ぶる、とちいさく身震いした、そのとき、


「ハフリ?」


 低くかすれた声でかたちづくられたみっつの音が、ハフリの内側に滑り込む。

 ほしみたいだ、と意識の隅で思った。藍色の空に浮かびあがったみっつの星。ちいさくて、けれども瞬くたびに光の粉を振りまく。そしてその粉がまた新たな星になって、あつまって、水になって、川となる。

 ゆれる。

 あふれそうに、なる。

 ふつふつととめどなく湧き上がる想いは、消えない泡のようだった。

 わたしは、と。喘ぐように思う。

 わたしは。

 ずっとこの声を聞きたかった。

 このひとに名前を呼んで欲しかった。


 ――ソラトに、あいたかった。


 心は星で埋め尽くされ、星の水は際限なく広がって海となる。波が波を呼び、とぷりとぷりと音を立て、時折大きくさんざめく。

 目でソラトを見ているはずなのに、光で視界が覆われているような感覚におちいって。なんなのこれはと溺れそうになる。呼吸するのも、苦しい。

 心臓が大きく鼓動し、内側から身体を震動させる。血が、熱を増す。なにかが喉もとまで迫ってきていて。けれども外に出すのは躊躇われて。

 その感情の正体もわからないまま、ただ乞うように、


「ソラト」


 言葉がこぼれた。けれども、小さくつたない三音は風に吹かれ、すぐに空気に融けてしまう。

 光が引いたそこには、こちらを見つめるソラトがいて、思わず唾を飲み下す。

 彼の瞳に自分がうつっている――そう認識した途端、反射的に顔は地面を向いてしまった。そんな自分に戸惑う。息はまだ、苦しいままだった。

 砂と靴が擦れる乾いた音が数回響いて、足許に自分の靴より一回り大きい靴が現れた。

 革で作られた靴は、丈夫であるはずなのに傷だらけだ。つま先がひときわ擦れているのは、彼が地面に爪先から付いて歩くからだろうか。

 足を大きく上げ、踵から堂々と地面に踏み込む姿の方が彼には似つかわしい気がするのだけれど。想像と現実の違いに、わずかに戸惑う。


「ハフリ」


 ソラトの声には、逡巡が滲んでいた。

 目を合わせなければと思う。合わせたいと思う。けれどもなぜだか、怖い。


「けが、なかったか」


 降ってくる声に、かろうじてうなずく。


「そっか。よかった」


 ソラトはぼそぼそと呟いた。

 きっと、困らせている。沈黙が、重い。


「スオウと、相談してくる」


 言い訳のようにそう言って、ソラトが踵を返そうとする。

 行ってしまう。


「まって」


 片手がとっさにソラトの服の裾を掴んでいた。

 自分が一体何をしたいのかわからない。

 なにが、したい?

 自分に問いかける。握る手に力を込めて、無意識にくちびるも噛みしめる。一度ゆっくりと目を閉じて、開いて――顔を上げた。

 動いた勢いで前髪が視界から消える。空気がほどけたような感覚があって、息が吸えるようになる。

 頬が紅潮しているせいで、風がひときわ冷たく感じられた。ひどい顔をしているかもしれない。けれども、もはや目を逸らすことはできない。

 ソラトは驚いたようにハフリを見つめていた。映っているものが見えそうなまでに澄んだ、虎目石の瞳孔。そのなかにある、ひかり。

 やっとみれた、と思った。

 自分から逸らしたはずなのに、目が合ってしまえばうれしくて。思わず顔がほころぶ。

 裾を握った手とは逆の手で、喉を押さえた。

 震えろ、喉。

 音となり声となれ。

 いくつもたどたどしい音をもらして、さいごに、


「おかえりなさい」


 たった一言をはなつ。大きな声ではなかった。けれども、風に流されることはなく、ソラトやツムギ、スオウの言葉と同じように、まっすぐに響いた気がした。

 喉をなでる。

 同時、頭のうえに何かが乗せられた。

 ソラトのてのひらが、ハフリの髪――ほどけて広がり、所々絡まっている薄金色のそれをすく。頬に触れる。ソラトの指先はひどく荒れていて、ささくれがハフリの肌を浅くひっかいた。

 しまったというように引っ込められた手を引き止めたい衝動に駆られたものの、身体は動かず、ハフリはただソラトの顔を見上げていた。

 ソラトは一瞬目を逸らしたあと、口許に笑みをはく。それは無邪気な少年の笑い方ではなく、どこか大人びた笑い方だった。かすかな不安に、肌が粟立つ。

 ハフリの硬直を解いたのは、ソラトの胸元から響いた風音のようなさえずりだった。続けて「オカエリナサイ」と、ハフリに似せた声が聞こえる。

 ソラトの胸元には古びた方位磁針と小さな袋がかかっていた。袋のなかにおさまるのは、空色の小鳥だ。


「フゥ」


 名前を呼ぶと、フゥは羽毛を逆立て身体を膨らまし、不服そうにもぞもぞと身じろいだ。

 ソラトが首から袋につながっている紐を取り上げ、ハフリに手渡す。


「俺が出ようとしたら鳴くもんだから、連れてきた」


 ソラトが苦笑する。目許がやわらいだその表情に、ハフリはひどく安堵して。


「ただいま」


 フゥのやわらかい羽毛に頬を寄せた。




 崖の上へとティエンで登り、ソラト達が持ってきた水と食料を平らげてしばらく。ティエンに騎乗したツムギは不貞腐れた様子だった。

「なんで、あたしがスオウとティエンで帰んなくちゃいけないわけ」

 ウバタマの手綱を持つソラトが、呆れたように息を吐く。

「お前は怪我してんだろ」

 ツムギに口を挟む隙を与えず「それに、スオウは明け方からチカラを使ってて疲れてる」と付け足す。スオウはそれに苦笑した。

 ツムギはまだもの言いたげな顔をしていたものの、数歩離れたところにいるハフリをちらと見て――浅く嘆息する。そしてまだ騎乗していないスオウに「早く乗りなさいよノロマ」と口を尖らせた。

 光の粉を振りまいて、ティエンが翼をはばたかせる。

 風が生まれ、空へと獣を導く。空へ向かって吹く風はどこか『天馬』に似ていた。

 金色の獣が天を駆け、空の一点になるまで見送った後、ソラトがウバタマを指差す。


「ウバタマは疲れてるだろうから、引いていく。歩けるか?」

「うん。歩けるよ――」


 言葉を遮るように、空から細かなものが落ちてきた。肩に乗った白と黒の混じる粉を指で払うと、さらりと崩れ、指先にざらつきだけが残る。


 灰だ。


 この地には、こうして時折灰が降る。火蜥蜴の山から噴き出した石の粉が、雲に紛れ、風に乗り、やってくる。

 村に帰ったら掃いて取り除かなければいけない。でなければ、しがみつくように生えているわずかな緑すら絶えてしまう。

 灰は音もなく降る。溶けることも、雨のように流れることもない。乾いた粉となって、ゆっくりと、けれど着実に積もっていく。

 村の状況は、刻一刻と悪くなる一方だ。


「どうにかしないとな」


 ソラトが遠くを見つめながら、うなるように呟いた。

 その様子と語調から、彼の今回の旅も徒労に終わったことが察せられて。声をかけることもできず、立ち尽くす。

 一歩、ソラトが踏み出した。

 まるで何かを詰り、蹴りつけるように、爪先が地面をこする。


「ハフリは、この村に来て良かったと思うか?」


 背を向けたまま投げかけられた問い。

 迷いなく、「うん」とうなずく。


「そっか」


 表情を見せないソラトの声が、どこか息苦しそうに感じられて、胸が痛む。やるせない気分になる。自分の無力さを思い知らされる。

 無意識に、一歩踏み出して。

 もう一歩、駆けるように進む。

 追いついた背中を見上げて、力なくぶら下がる片方の手を、両手で包み込んだ。

 おおきくて、乾いてささくれた、ひどく冷たい、手。

 ぎゅっと力をこめる。ただ、握りしめる。この冷えた手をあたためられるのなら、体温をすべてあげてしまっていいと、ひらめくように思った。

 おそるおそる顔をあげると、ソラトは呆然とハフリに握られた手を見つめていた。急に不安になって手を解こうとすると、躊躇いがちに握り返される。

 それほど力は入れていないだろうに、ハフリの握力よりもずっと強い。力になりたいと思うのが、おこがましいのかもしれなかった。

 でも、でも、と思う。

 わたしは――このひとのちからになりたい、と。


「帰るか」


 手をつないだままかけられた言葉に、こくりとうなずき歩きだす。

 少しずつあたたかくなっていく彼の手を意識しながら、心のなかで「ここにいるよ」と小さくつぶやいた。

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