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一章・少年と翼獣(2)

 呼吸を忘れそうな衝撃に、身体が痺れる。耳の奥で渦を巻くソラトの声を受け止めるのに、時間を要した。言葉の意味を正しく理解できている気がせず、都合の良い幻聴だったのではとも思った。

 けれども、ソラトの視線が逸らされる様子はなく。

 ハフリの口をついたのは、


「……どう、して?」


 疑問だった。彼のようなひとが自分を連れて行く理由が、利点が、ひとつも思い浮かばない。

 案の定、ソラトの言葉は明らかに歯切れが悪い。


「セトさ——いや、ハフリが外の話を、すごく真剣にきいてたから」

「……セトおじいさまが、何か言ったんですね」


 ハフリの沈んだ声に、ソラトは慌てて両手を振った。


「言い方が悪かった、ごめん。セトさんが言っていたのは、ハフリが外に憧れてるってことだけだ。俺は……文字がほとんど読めないし、地図を読むのも得意じゃない。ハフリは文字が読めるんだろ? 俺が見落とすものを見つけてくれるんじゃないかって。だから、」


 ソラトの喉が上下する。一拍を置いて、


「これは、俺の意志だ。ハフリが望むなら、俺は連れていきたい」


 まっすぐに放たれた言葉が、ハフリの内側に沁みていく。彼の澄んだ瞳を見つめていると、何かがすとんと胸の底に落ち着いた。

 唾を一度飲み下し、引き結んだくちびるをほどく。


「わたしが望めば、連れて行ってくれるんですね」


 ソラトが躊躇いなくうなずく。揺るぎない動作にハフリは安堵し、大きく息を吸って、深く頭を垂れた。


「何でもします。連れて行ってください……!」

「何でもって、そういうのはいらない。ただ、さっきも言ったけど、俺の村はこの森みたいに裕福じゃない。セトさんに言った通りの有様だ。それでも?」

「ご迷惑なら、途中で降ろしていただいてかまいません!」


 いつしか声は必死になっていた。これを逃したら、もう外に出られはしない。

 そしてソラトには、もう二度と会えなくなるだろう。


「連れて行ってください……!」


 頭を下げたまま、どのくらい時間がたったか。

 ふいに、ソラトの手がハフリの肩に乗せられた。


「俺の村、ずっと北にあるんだ。厚めの服、ある?」

「いいんですか? ほんとうに?」


 ああ、とソラトは歯を見せ笑った。


「ティエン――あの金色のやつさ、滅多に人に近づこうとしないんだ。でも、ハフリのほうには誘われるように向かっていった。俺たちにとって、ティエンは特別なんだ。だから、あいつが選んだものを軽んじない。ハフリを乗せる気になったなら、たぶん意味があるんだ」


 差し出された言葉に、鮮やかな光を見た気がして、


「だからハフリ、行ってみないか。俺の村に」


 瞳から、大きな何かがこぼれ落ちる。


「どうした。俺、なんか変なこと言った?」


 慌てた様子でこちらをのぞきこむソラトに、ハフリは首を横に振り、手の甲で涙を拭った。


「違うんです。ごめんなさい、だいじょうぶです」

「……また謝る。大丈夫なら、いいけど」


 あやすように頭をなでられながら、


「ソラ、ト」


 はじめて、その三音を口にする。


「ソラト」

「なに」


 もう一度、確かめるように呼ぶと、低くもやさしいこたえがあった。

 大きな手のひら。包み込まれているような感覚。

 ソラトはまるで、ハフリに小さな居場所をくれる、森外れのあの樹のようだった。



    ◇



 本の山の傍らに畳んで置いてあったのは、しみこんだ泥の痕が残る、すりきれた父の外套だ。

 手に取り顔をうずめると、かすかに乾いた土の匂いがした。


(外に出たら、お父さんが何の民だったかわかるかな)


 知りたいと思う。

 知ることができたら、何かが変わる気がした。

 片手に握った額飾りは、母のものだ。極彩色の刺繍が施されたそれは、本来ならば、母が仕立てて娘に贈る歌鳥の民の装身具だった。羽根を添えたとき、それは一人前の歌鳥の民のあかしとなる。

 しかし、歌えないハフリに羽根が与えられることはない。そう思うと、額飾りを遺した母に申し訳なく、罪悪感が募るばかりだった。

 置いていくべきかと迷う。けれど手放すことはできず、肩に掛けた皮袋の一番奥に、丁寧にしまった。

 最低限の着替え、外套と額飾り。一冊の本。

 ハフリが持ち出そうと思うものは、たったのこれだけ。

 不満げな声をあげた胸元の小鳥に苦笑する。


「そうだね、フゥがいるものね」


 天幕の隅に角を揃えて積みなおした本たちを一瞥し、ハフリは生まれ育った家をあとにした。



    ◇



 いばらの道の向こうには、ソラトと獣が待っていた。

 夕日を受けて輝く獣を、ソラトが指し示す。


「改めて、こいつは翼獣(よくじゅう)のティエン」

「翼獣?」

「どこで生まれ育つのか、誰も知らない生き物なんだ。突然、流れ星みたいにやってくる。俺が十歳の時に出会って、それ以来の相棒」

「……そうなんですね」


 しげしげとティエンを見つめていると、ソラトが「あのさ」と言葉を紡いだ。


「敬語はやめてほしい。なんつーか、その、距離を感じるっつーか、無理やり連れてくみたいで落ち着かないというか。うまく言えないけど」

「はい……うん」


 満足そうにうなずいたソラトは、ハフリを手招く。

 ティエンの背は、二人をやすやすと乗せられるほどに大きい。長いまつげに囲われた瞳は、つやめく飴色だ。


「なでてやって。喉元とか、喜ぶ」


 促され、おずおず手を伸ばすと、ティエンは嫌がるそぶりもなく目を細めた。見た目より硬い馬のような毛は、寒さに耐えるためか隙間なく生えている。

 喉元をかくようになでてやると、ごろごろと喉を鳴らした。ソラトが感心した様子でのぞきこむ。


「こいつ気位が高いから、滅多に他の人間にはすり寄らないんだ」


 確かにこの美しい獣には、人に従う姿よりも、独りで堂々と立つ姿が似つかわしい。

 それでもこうして懐いてくれることは純粋に嬉しく、ハフリは精一杯の声を絞り出した。


「よろしく、お願いします。ティエン……ソラト」

「俺の名前はティエンよりあとかあ」


 苦笑したソラトが、颯爽とティエンに騎乗した。

 そして、ハフリに手を差し伸べる。


「つかまって」


 ソラトの手に、自らの手を重ねた。こんな風に手を繋ぐのは、今まで父としかなかった。

 父の皮膚の薄い骨ばった手を思い出す。

 今感じるのは、少し硬く、乾いた肌の感触だ。けれど、人のぬくもりは変わらない。

 そのあたたかさに励まされるように、ハフリは思う。


(涙はここに置いていこう。せっかく掴んだのだもの)


 首掛け袋に収まるフゥが、鼓舞するかのように力強く鳴いた。

 ティエンが大きな金色の翼を一振りすると、風が生まれて草を揺らす。

 軽く地面を蹴る音とともに、天空の空気がハフリをぶわりと包み込んだ。



    ◇



 翼は(くう)を掴んで羽ばたき、蹄の前肢と獅子の後肢は力強く宙を蹴る。金色の軌跡を残しながら、ティエンは風切り翔けていく。

 森はいつしか、遥か後方の点となりつつある。

 籠としか思えなかった森。そこから抜け出た今、ハフリの気持ちは少なくとも上向きであるはずだった。


 けれど。


 ハフリの心を真っ先に占めたのは、歓喜どころか恐怖だった。足が地に付いていない状態はとてつもなく心細く、すれ違う疾風の鋭さに恐れおののく。

 世界のすべてに「森に帰れ」と責め立てられているかのようで、嫌な震えと冷や汗が止まらない。

 ソラトの腰に回した腕に、無意識に力がこもる。


「怖い?」


 顔だけ振り向き問うたソラトに、必死に首を横に振る。

 自分が望み、連れ出してもらったのだ。断固として帰るわけにはいかない。

 けれど実際は、帰りたがる身体と、帰りたくない心がせめぎあっている。

 ソラトと目を合わせたら弱音を吐きそうで。目をそらすと、ソラトが苦笑する気配がした。


「仕方ないな」


 肩が小さく跳ねた。

 戻ろう、帰ろう——そう言われてしまうのだろうか。続く言葉から耳を塞ぎたいのに、手を使うことはできず、なす術なく震えるしかない。


「落ちろ、ティエン」


 ソラトの声が耳に触れる。


「地面に向かって、まっすぐ!」


 え、と声をもらした瞬間、身体のなかみを宙に置き去りにしてきたかのような感覚に襲われる。

 地面とほぼ垂直に降下を始めたティエンが、矢になったかのように、空気を切り裂いていく。勢いは増し、少しでも腕の力を緩めたら宙に投げ出されそうで、ハフリは声にならない悲鳴をあげた。

 地面が近づく。

 その脅威に負け、目を伏せそうになる。


「ハフリ」


 毅然とした、面白がっている様子さえ感じさせる声に導かれ、ぱっと目を見開いた。

 目の前に地面がある。ぶつかると思うのに、目が閉じられない。切羽詰まっているはずなのに、心の奥で何かを待っている。

 ソラトに抱きついていた手に、ぬくもりが重なる。

 組んだ両手が、ソラトの手に包まれていた。


「大丈夫だ」


 凛とした響きをたたえたささやきが、耳から全身にしみていく。


「だいじょうぶ」


 小さく繰り返す。

 だいじょうぶ。大丈夫だ。

 ソラトが、そう言うのなら――


 ぐわんと視界が揺れる。翼を一振りし光の粉を振りまいて、天に向かってティエンが啼いた。誇り高い、しなやかな獣の鳴き声だった。

 息を飲む。

 鼻の奥がつんと痛んだ。

 視界いっぱいに、青空が広がっていた。

 吸い込まれそうなまでに澄んだ色に見ほれていると、フゥが胸元でふるるとさえずる。

 ティエンの速度が弱まったのを見計らって、フゥがおさまる小袋を持ち上げる。黒い瞳をまたたいて、フゥがほろろと鳴く。懐かしむような声音だった。

 ハフリもフゥも、見ることなどできなかったはずの外の世界。

 それが今、どこまでも広がっている。


「まだ、怖い?」


 ソラトがちらとこちらを振りむき、尋ねる。


「怖く、ない」


 胸の高鳴りは、今や空に焦がれる気持ちから来るものになっている。

 ソラトは「よかった」と笑い、嬉しげに言葉を続けた。


「『うつむいてたら見逃すばかりだぞ』って、じいさまによく言われてた」


 顔を前に向け、独り言のごとく。けれど、はっきりとした声で、


「村は貧しいし、寒いし。どうにかしたくてここまできて、それなのに何も見つからなかった」


 けど、と繋がった声は、強く自分に言い聞かせるようだった。


「俺は、うつむかないって決めてる」


 ばさりと、ティエンの羽音が一際大きく響いた。フゥがぴぃと高い声をあげる。

 振り向いたソラトが歯を出して笑い、身体を少し斜めに倒す。

 開かれた景色に、ハフリは深緑の瞳を大きくした。

 大地に寄り添う太陽。地平近くの茜色は淡い青と混ざりあい、天上には神秘的な紫が顕現している。銀雲は空の色をうつして流れ、妙なる模様を宙に描いた。

 あかがねの太陽の輝きは、ティエンをより美しく照らし出す。金の軌跡は赤みを帯びて火の粉のようにきらめき、風にさらわれ散らばった。

 いつか本のなかに見た『海』のごとく波打つ草原。見たこともない光景ばかりが、鮮やかに広がっている。


「綺麗だな」


 ソラトのつぶやきにハフリは幾度もうなずき、心の奥で強く願った。


(わたしもうつむかないでいたい。強くなりたい)


 ゆっくりと夜の藍をいざないはじめた空。その変化すらも、痛切なまでに美しい。

 ひたすら景色に見入るハフリに、ソラトが荷袋から縄を取り出し手渡した。


「寝ても落ちないように、これで俺とハフリを結んで」


 口調こそ穏やかだが、遠くを見つめる瞳は張り詰めている。彼が見ようとしているのは、遥か北、灰に鎖された故郷だと知れた。

 ハフリの視線に気づいたのか、ソラトが微苦笑を浮かべる。


「これから冷え込んでくるから、上着はしっかり羽織っておけよ。まだ村まで何日もかかるし、眠れるときに寝ておいた方がいい」

「……ソラトは?」


 瞳の下に刻まれたくま。森までの道のりでさえ、彼はほとんど眠れていないに違いない。


「大丈夫だ」


 それなのにソラトは、ハフリの頭をなでて笑う。


「おやすみ、ハフリ」


 次第に太陽は沈み、星のささやかな銀光が夜空にまたたく。満ちて円となった月のあかりが、空をほんのりと藍に染めていた。

 ソラトの背中にそっと頭をもたれさせると、心臓の鼓動が伝わってくる。跳ねるように駆けるように、ソラトの内側でいのちが力強く躍動していた。

 心地良い感覚にひたりながら、目を伏せる。彼に触れていると、強くなれるような気がした。

 しんとした空気のなか、ふいにソラトがあっと声を漏らす。

 小さく身じろぎすると、「起きてる?」と問われ、うなずくと目の前に何かが差し出された。

 ゆらゆらとゆれる、あわいひかり。

 これは、


(お父さんの)


 ぼろぼろの方位磁針が、底板から薄黄緑色の光を発していた。磁石が浮かび上がり、方位をはっきりと指し示す。

 ソラトが声を弾ませた。


「夜でも使えるよう、底に蛍石(ほたるいし)が埋められてるんだ。珍しいものだと思うけど、本当にもらっていい?」


 うなずくと、茶化すようにソラトが笑う。


「あとで返してとか言うなよ」

「い、言わないよ」


 言うはずない。

 だってハフリは、ソラトの役に立ちたくてこれを渡したのだから。

 わき上がる感情に身を任せて、ハフリは顔をほころばせた。

 すぐに夜闇に隠されてしまったその表情に、ソラトは一瞬とても驚いた顔をしていた。

 ゆったりとした静寂が世界を満たす。

 どこで覚えたのか、フゥがフクロウのような声で鳴いている。柔らかく心地よい低音に、ハフリの意識はゆっくりと、まどろみへと導かれていった。

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