(鋭い)忠告と(甘い)誘惑
勿論、吸血鬼の力を解放させた伯爵の強さを、アリスは知っている。負傷してもあっという間に再生し、速さも腕力も凶暴性も、一般人には到底手に負えないはずだ。
だが、一番の問題はそこではなかった。伯爵が、自らの意思と関係なく人を襲ってしまっている……あんなに優しく温かい人が、自分を「化物」と呼んでまで周りを危険から遠ざけようとする人が。
「…………耐えられない」
自分にできることがあるのなら、そうしたい。伯爵の暴走を止めなければ、彼が正気に戻った時に犯した罪の重さで自分を呪ってしまうだろう。
けれどアリスには力もなく、方法も思い浮かばない。かと言ってこのままオズが伯爵を捕えて研究対象にするのを黙って眺めているのも嫌だった。
必死に考えを巡らせるアリスに、バターフライが呼びかける。
「レディ・アリス、お迎えが近付いてきていますよ」
「あっ、はい!」
マーリンの記録魔法の効果は二時間だと言われた。つまりあと十数分で、アリスは元のサイズに戻るということだ。その前にこの場を離れ、チェシャ猫と合流しなければならない。ワイズ・ワームの潜伏場所をオズ勢に悟られるワケにはいかないからだ。
「お二人とも、ありがとうございました。おかげで私……やらなきゃいけないことが分かってきました」
「アリス、」
バターフライが示した方へ駆け出そうとするアリスを、ワイズ・ワームが呼び止めた。
「己を蔑ろにしてはいけない。君の生命も一つなのだ」
向けられた瞳は、進路指導の先生のような鋭さを持っていた。意思を貫く覚悟があるか見極めるような、または、どのような意思で動こうとしているかを探るような。
「……大丈夫です。ちゃんと、元の世界に帰れるように頑張ります」
***
耳の奥、心臓をしめつけるような、声がループする。
―「探しに出ちゃいなよ」
幼い少女の声。だが確かな悪意と愉悦を含み、魔物の呪いがごとく彼を侵食していく。
欲しい、欲しくない、足りない、欲しくない、美味い、欲したくない――……自分の葛藤など、少女にとってはただの喜劇にも及ばないのだろう。何者なのか把握する前に、声の主は彼に与えてしまった。彼の理性を奪う主食を。
―「いいじゃない、欲望には忠実に……ね?」
それからのことは、記憶として残っていない。愛しいあの味をもう一度。その一心で飛び回り、当たりをつけ、見繕った。けれど違う。無い、見つからない、出会えない……。
「――――――ッ!!」
悔しさと虚しさともどかしさが狂気となって溢れ、彼が常人の耳には響かない啼き声を発した、その時だった。放たれた音波の反響が、彼に教えてくれた。覚えのある存在が居る、と。それは移動をしているらしい。
本能的な興味か、理性的な解析があったのか、とにかく彼は、キャッチしたその存在を、追跡し始めた。
***
チェシャ猫と合流できるであろう方向へ、アリスは小走りで進んでいた。ワイズ・ワームにたくさん話を聞いたことで、やるべきことが分かり、帰るためのヒントも掴めた気がする。ただ、やはり強制的に目覚めさせられたという伯爵のことが、引っかかっていた。
何故か、嫌な予感がする。チェシャ猫と早く合流して、情報共有をして、マーリンのいる地下森林に戻りたい。
相談さえできればきっと、オズより先にフランケンと接触する手立ても出てくるだろうし、伯爵のことを含めて対処する順番だって整理できるはずだ。
そこでふとアリスは、落ち合う方法を考えていなかった、と気付く。チェシャ猫には魔力探知のできる耳があるから、最終手段としてはクラウ・ソラスを発動させればいいのだが。
「……無理かも」
考えてみれば、アリスは自分の身を守るためだけにクラウ・ソラスを使った覚えがあまりなかった。魔法具が発動する時は決まって、アリスの胸中には他の誰かに対する一種の申し訳なさのようなものがある気がする。
つまり、大した危険にも晒されていない状況で、クラウ・ソラスの発動によってチェシャ猫と合流するのは不可能に思えた。
と次の瞬間。
「わぁっ……と」
アリスの身体は元の合図に戻り、視界も随分と拓けた。さて、あとはチェシャ猫を探すだけ……辺りを見回りし首を動かすと、一面の緑の中で一箇所、黒の目立つ部分があった。木の幹ではない。風になびくそれは……
「マント……?」
そう認識できたのと同時に、アリスの身体は横に突き飛ばされた。
「えっ……?」
心構えも何もない状態で力を加えられ、二、三歩よろめいたアリス。何が起きたのか、きちんと把握するには、数回の瞬きが必要だった。
赤。それも、危機感を煽る気味の悪い鮮やかさを持った赤が、飛び散って、滴る。人間が最も恐れる赤……血だ。一体誰のか、直後に聞こえてきた声で、嫌でも分かった。
「アリスちゃんっ……逃げろ!!」
いつもの余裕などどこにもない、チェシャ猫の指示。今の彼には、アリスを抱えることはおろか、手を引いて一緒に逃げることすら不可能なのだと、アリスにも理解できてしまった。
何故ならその両腕はすでに、彼自身の血によって真っ赤に染まっていたからである。そして、チェシャ猫の両腕どころか至る所に傷を負わせたその存在は、興奮状態の獣のように、牙を真っ赤に染めあげていた。
嘘だと思いたかった。間違いなく知り合いなのに、知っている雰囲気はどこにも見当たらなかったから。
「どうして……」
暴走状態になっていると聞いていたとは言え、アリスは受け入れられなかったのだ。黒いマントの彼が、吸血本能のままにチェシャ猫を傷つけた事実を。
「……伯爵」




