振り切れた判断 ―対抗―
声を震わせるアリスを庇うように前に立ち、チェシャ猫は言う。
「見れば分かると思うけど、結構劣勢でね……。悪いけどアリスちゃん、一人でマーリンのトコに戻ってくれないかな……」
「な、何言って……」
「来る!」
再びアリスを突き飛ばしたチェシャ猫の腕に、伯爵の牙が食い込む。尻餅をついたアリスは、そこで初めてチェシャ猫の弱気な発言の意味を察した。
暴走状態ということは、伯爵は吸血鬼の力を全開放しているということ。驚異的な身体能力と速さに加え、負傷しても瞬時に完治するほどの回復力もあるのだ。つまり、どこを取ってもチェシャ猫に勝ち目はなく、ましてアリスを守りながらなど、残念ながら不可能と言いきれてしまう。
恐らくアリスを迎えに来る途中で伯爵に遭遇したのだろう。攻防と言っても、圧倒的な速さで突っ込んでくる伯爵に対し、チェシャ猫は致命傷を避けるので精一杯だったのだ。首筋を噛まれたら終わり、脚が動かなくなったら終わり……だからこそ、両腕にばかり傷が集中した。
「痛、いん、だよっ……!」
噛みついた腕から血を吸う伯爵の腹部に、チェシャ猫は全力で蹴りを入れて距離を取る。飛び散った血が、アリスの服にも付着した。
「チェシャ、」
「いいから早く……君の血吸って、更に覚醒するよりは……」
そうだ。伯爵の力を最も強めるのは、若い女性の血。下手にアリスが出しゃばって血を与えることになれば、今度こそチェシャ猫の勝率は無くなる。しかし……
「…………嫌だ」
耐えられない。あの優しかった伯爵が、こんな風に誰かを、しかもかつて一緒に旅した仲間のチェシャ猫を、傷つけているなんて。
―「誰彼構わず無闇に反発して危機的状況創り出すの、ナシだよ」
つい2時間前に言われたことを守れなかったのは、申し訳ないと思う。それでもアリスは嫌だった。これ以上、チェシャ猫が傷だらけになってしまうなんて。
「お願い……助けて」
アリスに出来る唯一は、伯爵の牙をチェシャ猫に届かせないことだった。
「チェシャを、守って……!」
「なっ……やめろ!!」
チェシャ猫の耳が反応を示す。アリスの行動を察知して叫んだのとほぼ同時に、彼は虹色の光沢を持つ半透明のドームに包まれた。魔法具クラウ・ソラスは、アリスの強い願いに応じて、チェシャ猫を包むように守る「盾」となった。
「何、してるんだ……アリスちゃん! 解除しろ!」
「できないよっ……!」
目に涙を浮かべて訴えるアリスに、チェシャ猫も言葉を詰まらせる。
「ごめんね、チェシャ。でも私……これでも、『勇者』だから……」
伯爵のことも、チェシャ猫のことも、見捨てるなんてできない。そう伝えようとしたアリスの言葉は、それ以上続かなかった。首筋から伝わる、鈍くて冷たい痛み。息が詰まり、あっという間に指先が麻痺する。
「伯……爵…………」
「アリスちゃんっ……アリスちゃん!!」
伯爵の吸血対象は、絶対不可侵の「盾」により守られたチェシャ猫から、無防備なアリスに即時変更されたのである。急激な貧血によって意識を手放したアリスには、チェシャ猫の呼びかけも届かない。
「――――――ッ!!」
求める味にありつけた吸血鬼は、歓喜と興奮の雄叫びをあげる。その「音波」は周りの木々をしならせ、風を生んだ。未だ自分を守るクラウ・ソラスの「盾」を拳で叩きながら、チェシャ猫は見ていることしかできなかった。アリスを抱えて棲み処に飛んで帰っていく、ドラキュラ伯爵を。
***
すすり泣く声が、聞こえる。一人ではなく、三、四人ぐらいの。ひんやりとした床……一体どこに寝かされているのだろう。
自分の瞼をいつもの何倍も重たく感じながら、開けようと試みる。疲れているのか、手足に力が入らない。それでも、起きなければならない気がする。何故なら自分は……勇者だから。
「う……、」
肘から先に力を入れて、うつ伏せだった上体を起こす。持ち上がったのはほんの少しだったが、自分が意識を取り戻したことを周りに伝えるには充分だった。
「大丈夫? まだ、安静にしていた方がいいよ」
アリスの傍で膝を抱えて座る女性が、ぼそっと告げる。
「ここは……?」
「吸血鬼の根城。私たちは、かわるがわる食糧にされるんだよ」
見れば、そこは仄暗いランタンが四隅にかけられただけの、牢屋だった。オズの屋敷で囚われた時のことを思い出す。
朦朧とする中で耳にした複数人のすすり泣く声は、一緒に閉じ込められた女性たちのものだった。アリスに話しかけた女性の他にも、4人が同じ牢に閉じ込められている。2名は泣きながら祈り、2名は肩を抱き合って震えていた。アリスの傍で膝を抱える女性は、ただ一人、全てを受け入れたようにジッとしている。
「きっと、罰が当たったんだよ。他の人は知らないけど、私はそう」
彼女の三つ編みは、ランタンの光によって淡い金色に見えた。ゆっくりと身体を動かし、うつ伏せから座り直し、アリスは問いかける。
「悪いこと、したの?」
「たくさん」
「そっか……私、アリス。貴女の名前は?」
「カーレン」
視線を落としたままのカーレンと、すすり泣く4人の女性を順に見て、アリスは考えた。単に連れ攫われただけならば、結束して牢を壊そうと行動してもおかしくない人数。にも関わらず恐怖に支配されたかのように泣き、絶望しているということは、カーレンの言うように、全員がかわるがわる吸血されているに違いない。つまりここに集められているのは、女性の血を好む伯爵の味覚が、厳選した血を持つ者達のようだ。




