名のないカフェ(6)
ガムゼは今だにウムトのことを『犬みたいな髪型の男の子』と呼び、特に珍しい名前でもないのに、ウムトの名前を覚えられないようだった。トイレには若い女性と中年男性が座っているテーブルの奥にあったため、その近くを通り過ぎないといけなかった。
女性は腕を組み、男性は眉間に皺を寄せ、重い空気が流れるテーブルに誰が近づきたいと思うだろうか?何となく感じていた嫌な予感が的中するように、聞こえてきた会話の断片、はっきりと聞き取れた単語がヌルを不安に陥れた。
「ウムト・・・ボイスレコーダー・・・病院の・・・」逃げ込むようにトイレに入り、ドアを押さえた。二人は一体何者なのか?初めて見る顔だったし、トイレの中から会話を聞き取ることはできなかった。
トイレから出て、テーブルから再び通り過ぎる際に、聞き取れたのは、その若い女性の名前だった。「・・・ところでメルべ、君はどう思う?・・・」席に戻ると今度はガムゼがトイレに行こうと、席を立った。
ヌルは立ちあがろうとするガムゼの腕を掴みながら「さりげなく、あそこに座ってる二人の会話を聞いて欲しい。ここを出たら、聞いたことを教えてくれない?」と囁くように小さな声で言った。
ヌルは深刻な表情を見せていたのに伝わらず、ガムゼは遠足を楽しみにしている子供のような顔を見せていた。「探偵はここにいたみたいね」そう言ってから、ヌルの手を解くと、トイレに向かって歩きだした。
ガムゼがテーブルから通り過ぎた時も二人は気にすることなく会話を続けていたから、何かしら聞いていることを確信していた。ガムゼがトイレから戻ると、鞄を手に取り、椅子をテーブルに押し込み、入り口の近くにあるレジに向かった。
カウンターに座る白髪の中年男性から再びその思い出せない香水の匂いがヌルを困惑させ、絶対に知っている香水だったが、名前の候補すら浮かばないままだった。ガムゼは先に重い扉を開けて外で待ち、ヌルがレジで会計を済ませていると、声を掛けられた。若い女性の声だった。
「落としましたよ」ヌルのハンカチを手に持っていたのは、奥のテーブルで話していたメルべという名前らしき女性だった。驚きのあまり、裏返ったような変な声を出してしまい、その女性は心配そうな顔を一瞬みせた。「あ、ありがとうございます」
それからハンカチを受け取り、一秒でも早くそこから立ち去ろうとしたが、その服装から持ち物まですべてが気になってしまった。どんな仕事をしているのかは知らなかったが、白いシルクのような滑らかな生地のブラウス、ネイビーのセンタープレスの入ったパンツ、黒のハイヒール、すごく似合っていたし、着こなしていた。
黒いストレートの髪が気の強さを表していたかもしれない、唇に塗られた赤いルージュがとても綺麗な色をしていた。つけている香水が、発売されて間もないハイブランドのものだということにもすぐに気がついた。
雑誌の誌面を飾るモデルみたいな女性だったし、誰もが一度は憧れるような容姿だった。そのせいで、ヌルは自分が見窄らしく感じたし、何となく嫌な気分になった。
「素敵な香りですね」と言ってから、気がつくとわざとらしく香水の名前を口にしていた。「ありがとう、香水に詳しいようですね。ここに来るのは初めてですか?」アイシャドウも使ったことがないような綺麗な色をしていたし、香水と同じハイブランドのものかもしれない。
「そうです、友達を外で待たせてるんで行きますね。ハンカチ忘れるところでした」「鞄から落ちるのが見えたんです」「助かりました」ぎこちない笑顔で感謝を伝えてから、ヌルは扉を開けて外に出た。




