名のないカフェ(4)
カウンターの席で新聞を読んでいる男性は五十歳くらいだろうか?顔が見えなくても、白髪の長髪がそれとなく年齢を表していた。
「ヌル、さあ扉を開けて」なぜかガムゼは自分で扉を開けようとしなかった。
「私が開けるの?」ヌルもその重そうな扉に何となく触れたくなかった。
「私がここまで連れてきたんだから、扉くらい開けてよ」
仕方なく、言われるがままに真鍮のドアノブを掴み、想像以上に重たいその扉を開けた。コーヒーの香りが二人にカフェであることを確信させ、カウンターには窓から見た白髪の中年男性が座りながら、新聞を読み、手に持っていたマグカップからコーヒーを飲んでいた。
長いカウンター席の奥には三つの丸テーブルがあり、それぞれに二つの椅子が置かれていた。決して広いとは言えないカフェだったが、ガスランプの淡い光や、木製の古いテーブル、壁に架けられた西洋の複製画、あらゆるものがその年季と過ぎた歳月を物語っていた。
ガムゼが望んでいた様な探偵もののドラマのセットの様なカフェだったが、カウンターの奥にある棚にはウオッカや見たことのあるアルコールの瓶が並べられ、どうやらお酒も飲めるようだった。奥の丸テーブルの席に座るために、カウンターを通り過ぎる際、白髪の中年男性の背中にヌルの腕が当たってしまった。
「すみません」慌ててヌルは謝ったが、その男は少し頭を下げると、そのまま新聞を読み続けた。その瞬間、その男から香った匂いが、珍しい香水の香りに似ていていると思ったものの、その名前を記憶から呼び起こすことができず、喉に詰まった魚の小骨のような不快感をもたらした。
足元に置かれていた茶色い革の鞄はところどころ革が剥げていたのに、スーツは真新しいのか、皺一つなかった。どこにでもいそうな男だったが、なぜか細かい部分に不審感を抱かせられた。
奥の三つのテーブルのうちの一つにはヌルや、ガムゼと同じくらいの二十台半ばの若い女性と、カウンターの白髪の中年男性と同じくらいの年齢を想わせる男が座っていた。
端のテーブルにヌルとガムゼは座り、店内を見渡しながら、ヌルはカウンターの男がつけていた香水を思い出そうとしていたが、コーヒーの香りがそれとなく邪魔をしていた。
カウンター席の後ろの壁に架けられていた複製画は、教科書や、テレビで一度は見たことがあるような有名な絵画であり、額縁には埃を被っていても、それが安いものではなく、色彩が綺麗に繊細にプリントされているのには、すぐに気がついたし、店主が好きなのかもしれない。
ガムゼはヌルに顔を近づけて「レオナルドダヴィンチの音楽家の肖像、ボッティチェリの薔薇園の聖母マリア、フラアンジェリコの受胎告知、全てルネサンス期の絵よ」と得意げにその絵画の名前を口にした。
髭だらけで、髪を整髪料で分けている、分厚い眼鏡をかけた店主がメニューを聞きにくると勝手に想像していたら、高校生くらいの若いギャルソンがヌルとガムゼのテーブルにメニューを置いた。




