名のないカフェ(1)
薔薇の棘が手のひらに刺さって、血が流れても手放さないでいられることをサラは愛だと考えているのだろうか?痛みに耐えることが、もしくは痛みを超えた先に愛があるのだとすれば?
ブシュラが考える愛とはまた違ったものであり、サラの考える祈りもまた、そのような違いがあるかもしれないからこそ、その意味を知りたかった。映画館で食べたキャラメルポップコーンの甘すぎる味と香りがなぜかブシュラの記憶にあるサラのその言葉を忘れさせてしまいそうだった。
もしこのまま眠ってしまえば、記憶から薄れ、ついには消えてしまうだろうと、急いで机からノートとペンを取ってその言葉を書き記したが、今となってはそのノートがどこにあるのか皮肉なことに覚えてなかった。
サラと過ごした時間がピアノの旋律のように頭の中を流れ、目を閉じればより強くサラのことを感じられるような気がしたが、やっぱり気のせいだった。サラの祈る姿が一枚の絵画のようにイメージとして頭に浮かんできては、サラがそこに残したものを手に取りたいと思っていた。
それが、ブシュラの人生で最も悲しかった日に嗅いだ匂いであり、そこには悲しみだけでなく、後悔も含まれていた。サラの墓を訪れた時、土の、花の、木の香りが感じられ、その時の香りはアフメドに渡した香水を連想させた。
サラの墓で手を合わせ、猫を撫でたことが、その香りを完成させるために必要な何かに気がつかせ、またその香りを再現しようとブシュラの背中を押してくれたのかもしれない。
サラの言葉のように手を赤く染めても薔薇を掴み続けられるだろうか?もしかしたら、サラは祈りの意味をその香りの中に大切に隠したのかもしれないと、ふと思ったりもした。
窓から入る強く眩しい光で目が覚めたブシュラはそれがどういうことなのか、すぐに理解して飛び起きた。いつもなら家を出ている時間に目を覚ましたことを簡単には受け入れられず、何度も目を擦ったが時計の針は変わらなかった。
急いで支度を済ませ、忘れ物があったかもしれなくても確認することなく、汗ばみながらアトリエに着くと、心配そうな顔をしたヌルがすでに仕事をはじめていた。
「今日も来ないんじゃないかと思いました・・・」
「ごめんね、起きるのが遅くなちゃって」
「それならいいんですけど。疲れてるんじゃないですか?無理はしないでくださいよ」
ヌルの声からはっきりとした不安が感じられた。それから、いつものように仕事に取り掛かっても、ヌルの視線を何度か感じ、今まで五年ほど一緒に働いてきて、ヌルが寝坊して遅刻することは何度かあっても、ブシュラは初めてだったし、ヌルは簡単には信じられないままでいた。
それだけじゃなくて、今までの小さな積み重ねがヌルに大きな不安を感じさせていたのかもしれない、ふと目に入ったヌルの横顔はどこか虚しそうだった。




