雲の隙間から差す光(1)
「もし何かその物語について覚えているようでしたら、教えていただけませんか?断片的なことでも構いませんから」アフメドはその物語が気になっていたが、なぜそこまで気になっていたのか、明確な理由はなかった。
「残念ですけど、読んだ時の感情が今でも私の中に残っているだけで、献身的なところがそっくりな気がしんたんです、それだけじゃない気もしますが思い出せません。ただ、特別な物語ではなくて、よくある物語です。幼い私にとってはとても魅力的に映っただけです」
「そうですか、それなら仕方がありません。ところで水か何か持ってきましょうか?」
「そうですね、お願いしてもいいですか?」
アフメドは一度部屋を離れ、二本の水のペットボトルを脇に抱えて再びダリヤの待つ部屋に向かっていると窓の外から太陽が沈む前の濃い橙色の光が空を染めていることに気がついた。
ドアをノックしてから部屋に入ると、ダリヤも部屋の窓から外を眺めていた。アフメドが部屋に戻ったことはドアのノックと、扉を開ける音で気が付いていたはずなのに、ダリヤは外を眺め続けた。
アフメドは机にペットボトルを静かに置いてから座り、外を眺めているダリヤに声をかえけることなくただ待った。「やっぱり、思い出せませんでした」ダリヤは振り向いてアフメドに言った。
「思い出そうとしてくれただけで十分です。もし医者になっていたら私よりも、そしてその物語の中の医師よりも良い医師になってたんじゃないかと思います」
「あなたよりも素晴らしい医師になれるとは思えません。窓を開けても良いですか?少し風を浴びたいんです」
「構いませんよ」
ダリヤが窓を開けると、その瞬間、突風が部屋に吹いてアフメドの前にあるペットボトルが揺れ、頬にその風が触れた。ダリヤも結局すぐに窓を閉めて、アフメドが置いたペットボトルの前に座った。
思っていたより強い風が部屋に流れ込んできていたし、心地よい風ではなかった。ペットボトルを手にとって一口飲んでから何事もなかったかのようにダリヤは続きを話した。
「本は私にとって特別なもう一つの世界です。自分が生まれる前の歴史について知ることは賢者になったような不思議な気分にさせられました。特にイタリアのルネサンス期の芸術家たちの本が好きで、大学でもこのことについて学びました。
エジプトの大学を卒業してからイタリアの大学院に進み、そこでフラアンジェリコの論文を書いて博士号も取りました。フラアンジェリコの絵を初めて目にしたのはヴァザーリの芸術家列伝だったと思います。研究者になろうかと考えた時期もありましたが、その道には進まず、イタリアの出版社から内定を貰っていたのでそこで働くつもりでした。
働く前に時間をもらって、一週間ほどアレクサンドリアにいる母親の家で過ごすことにしたんです。特にそこで何かするつもりではなくて、ただ母親と時間を過ごすためだったんですけど、それでも時間を持て余してしまい、何もしないでいることに退屈して、短い物語を書いて母親に読ませました。
母親は気に入ってくれて、また何か書いてくれないかと頼まれたので、木から落ちる葉を一枚一枚眺めながら、その一週間で三つの物語を書きました。その一週間で地面に積もった葉っぱの山を見た時に自分の中で何かが目覚めたのをはっきりと感じたんです」




