サラの囁き(5)
サラは何も言わずに布団の中でアフメドに体を近づけた。それからアフメドの手を探し、見つけると手首の辺りを掴み、そのまま上着の中に導いて左の脇腹に置いた、アフメドの手は丁度そのアザの上に置かれていたのだろう。
「このことを言ってるんでしょ?」サラの吐息と共に声がアフメドの頭の中で響くような不思議な聞こえ方だった。そして、アフメドの口から言葉が出なかった。頭を縦に振って返事をした。
「日が昇る前までには全てを説明しないといけないの、それでもいい?」アフメドは再び頭を縦に振った。サラの呼吸が波のように動く横隔膜から伝わってきた。サラが生きていることもはっきりと感じさせると同時に、いつかはこの呼吸が止まってしまうこともまた頭の片隅には浮かんでいた・・・。
朝の光が花瓶を照らし、その反射した光がアフメドを夢から現実へと呼び戻した。花瓶の白い百合は買った日よりも花弁が目一杯開かれていた。サラはまだ夢の中にいるようだった。
真夜中のことは夢だったのか?はっきりと手に残る感触がそれが夢ではなかったことを表していた。そして日が昇る前にサラの不思議な物語は終わっていた。「どうしたの?」背中からサラの声が聞こえた。不自然なくらい真剣に自分の手を見つめていたのだろう。
「いや、特に・・・。それよりも、百合は大きく咲いたみたいだね」アフメドの言葉を聞くや、振り向いて百合を眺めるサラはどんな顔をしていたのだろう?黒く長い髪がまたしてもカーテンのように顔を隠していた。薄らと見える唇から全てを想像することはできなかった。
「そうね、綺麗に咲いたみたい。朝ごはん食べる?」「食べようか」アフメドは返事し、サラは布団を捲ってベッドから出るとキッチンまでなぜかつま先立ちで歩いていた。昨日の夜のことをアフメドは話したかったが、なぜか話す気にはなれなかった。
それはサラのせいではなく太陽のせいだろう。そのことを話すためには夜になるのを、月が出るのを待たなければならない気がしてならなかった。サラはいつもと同じように牛乳を飲み、唇を白く染めていた。
サラの左の脇腹あたりにあるそのアザは薄茶色で紅葉のような、もしくはうさぎか狐の足跡のようだった。決して大きいものではなく、そこまで目立つものでもなかった。そこに触れるのは初めてではなかった。
そのアザはサラであることの印だったのかもしれない。もし、サラと瓜二つの女性がアフメドの前に現れたら、そのアザによって区別できるかもしれないと思っていたが、そんなものがなくてもサラかどうか判断できる自信があった。
ある日、帰ってきたボロボロの男が息子だと古い傷によって気が付く神話をアフメドは思い出せないままコーヒーを飲み干していた。サラの体に刻まれたそのアザは、やはり生まれたときからあるようだった。
暗闇の中でサラは囁くように、手から砂をこぼさないように、とにかく気を付けながら話した。
「そうよ、生まれたときから身体にあるの。どんなに遠くに居ても再び会うことができると信じているの。生まれる前から離れ離れになることが運命づけられていたのかもしれない。そのために今、あなたとしているように生まれる前にこうしてお互いの身体に触れてこのアザを残したの。生まれる前の記憶はもちろんないけど、生まれる前に私は全てを知っていた」




