取り壊されたアパート、それから不動産屋(3)
「サラって名前は聞いたことある?」
「初めて聞いた名前だし、ブシュラがアフメド医師に渡した香水は特別なものみたい。そのレシピを今でも眺めているもの。どうしてかは分からないけど・・・」
やはりアフメド医師に聞く以外なかったが、アフメド医師だって知らない可能性が高かった。ブシュラがどうしてそこまでサラの祈りについて気になっているのか、ウムトには不思議だったし、少し奇妙だった。
「その香水の瓶をアフメド医師の部屋から持って来れないの?ブシュラが作ったその香水が気になるんだけど?」
「泥棒にはなりたくないんだけど?」
「そんなつもりで言ったんじゃないの、でももしかするともうその香水は劣化しているかもしれない。少なくとも私がアトリエで働く前にアフメド医師に渡したようだし・・・」
ヌルは鞄から小さな空の瓶を取り出すと、ウムトの前に置いた。
「もしチャンスがあったら、この瓶の中に香水を入れて私に瓶を返して」
「難しいと思うけど、やってみるよ」
ウムトは空の瓶を受け取り、眺めてから鞄に入れた。上手くいくと考えられなかっし、それをヌルも分かっていたのだろう。期待していないのは退屈そうな顔を見れば明らかだった。ヌルは、残り少ないケーキを大事そうに一口食べてから言った。
「ブシュラが込めた想いがその香りに詰まってる、確信はないけど・・・」
「悲しみだろうか?」
「そうかもしれない・・・」
それから、なるべく音を立てないようにゆっくりと皿の上にフォークを置いた。
「雨も止んだし、僕はそろそろ行こうかな」
「素敵な鞄ね、長いこと使ってるんでしょ?」
「ありがとう。初任給で買ったんだ」
「物を長く使うのは素晴らしいことだと思ってるの」
ヌルの言葉はウムトにアフメド医師のカセットプレイヤーを連想させた。
「それで、フォーレはどうだった?」
「どうだったって?」
「アフメド医師について知るために買ったんでしょ?まだ聴いてないの?ところで、どこのカセットプレイヤーを使ってるの?」
「カセットプレイヤー持ってないんだよね・・・」
ヌルはカセットプレイヤーをなぜ買ったのか、それから何を言っていいか分からず、言葉に詰まった。
「実はフォーレのカセットテープも手元にないんだよね・・・」
「どうして?」
「フルカンていう編集長が持ってる」
「そのフルカンて人が気に入らないの?」
ウムトの口から出たフルカンの名前を一度聞いてそこまで考えられるだろうか?ただヌルは正しかった。ウムトの言い方が単純にそう思わせるような嫌悪感を含んでいたのかもしれない。
「少なくとも信頼できる人間ではない。君もフルカンと話したらそう思うさ。それじゃ僕は行くよ。明日もここで待ってて、続きを話そう」
ウムトは鞄を肩に掛けてカフェを出た。雨上がりの澱んだ空気の中を走り抜けるように家に帰った。ヌルも最後の一口を食べ終えると、カフェを後にした。帰り道、ケーキの味が口に薄らと残り続け、簡単には消えなかった。
ウムトは家に着くと、鞄とジャケットをタオルで拭いて、着替えると、ベッドに飛び込むようにしてそのまま眠ってしまった。朝、少し遅刻して会社に着くとフルカンはすぐにウムトを呼んだ。遅刻したことを咎められると思いきや、そうではなかった。
「日曜日じゃなくて、土曜日に病院に行け」
一瞬、何のことかと思ったが、すぐにマルコが頭に浮かんだ。どうやって知ることができたのか?フルカンは質問を受け付けないと言わんばかりに大きな声で他の社員を呼んだ。ウムトは仕方なく自分の机に向かい仕事に取り掛かった。




