黒い車(4)
「分かりました」と言って、そのメモをポケットに仕舞う以外、秘書にできることはなかった。アフメド医師がなぜ死ぬことになるのか、恐ろしい答えが返ってくるのではないかと、訊けなかった。
「アフメド医師が死ぬとは限らないが、ただそう思っている」とマルコが無理矢理付け加えたが、秘書に一欠片の安心も与えずメモの渡し方はアフメド医師が死ぬことを確信しているかのようだった。秘書はもう何も言うことができなかった。車の窓に映るマルコの顔は退屈そうに、ただじっと外を眺めていた。
秘書として働きはじめてから、それなりの月日が経っていても、マルコが人間らしい一面を見せることはほとんどなかった。厚い仮面を被っているのかと、初めの頃はそう考えていたがそうではないのかもしれなかった。
娘の手術に適した執刀医を探すように頼まれて何人かの医師を候補として挙げたが、アフメド医師を選んだ本当の理由は何なのか?アフメド医師とアメリカで働いたことのある医師の推薦も理由の一つだが、それとは別に何か理由があるようにも感じていた。
手術のためにイスタンブールに行くのも不自然だった。国内でも手術できる医師を三人ほどリストに挙げたが、目を通すことなくアフメド医師に決めていた。秘書の耳には、窓に当たる雨の音が一定のリズムで響いていた。
*
新聞記者がアトリエを去ると、ヌルはチャイを淹れて椅子に座っているブシュラの前に静かに置いた。今は一人にするべきだろうと思って、別の部屋に行こうとした時に後ろから「ありがとう」とブシュラの声が聞こえたが、それは静かでなければ聞き逃してしまうほど力のない声だった。結局、ヌルは少し離れたところでブシュラのことを見守っていた。
サラ、その名前と響きは不思議な印象をヌルに与えた。もしブシュラが話したことが本当ならサラというその女性は芸術の女神に愛されていたのかもしれない。ブシュラのことを気にかけていると、何か言っているようだった。ヌルが近くに戻ると、力の抜けたような声で囁きだした。
「サラは、幻想的な女性だった。芸術の源泉がどこにあるのか知っていたのかもしれない。彼女と時間を過ごす中で、その欠片に触れることができたんだと思う。調香師として成功しているのなら、全てはサラのお陰だと感じることがあるの・・・」
ブシュラが引き出しの奥に閉まっていた香水のレシピに多くの花の名前が書かれているのは知っていた。ヌルはそれがバランスが取れていない、調和の感じられない香りなるのではないかと思っていた。
「花に包まれるようにアフメドの腕の中で横たわっているサラを目にした時、この世界の全ての花が枯れてしまうのではないかと心配になった。少なくともこの世界から大切なものが失われてしまった・・・」
その情景にブシュラは一枚の絵画をはっきりと連想していた。ミレーの描いたオフィーリアだった。流れる水に浮かんでいる女性の姿は美しいだけでなく、悲しみに満ちた顔、手にある花々は彼女に近づく死を表現しているようだった。
ブシュラがサラの喪失を受け入れられていないのは明らかだった。『花に包まれるようにアフメドの腕の中で横たわっているサラ』この言葉がヌルの印象に残っていた。サラの死因について訊くことは余りにも残酷だったかもしれない。ヌルはただブシュラの言葉に耳を傾けていた。




