黒い車(1)
「君についても少なからず調べたよ。悪く思わないでくれ、娘の手術を担当するんだから気になるのは自然なことだろ?どうやら、取り戻したいものがあるみたいだね」『取り戻したいもの』何を指すのかアフメドはすぐに分かり、ファイルを捲る手が止まった。マルコは全てを知りながらここに来たのだろう。
「違うかね?」アフメドの返事を待ちきれないようだった。どう返事をするべきか迷いながらファイルを一度机に置いた。マルコがこのことに触れるだろうと予想していたが、マルコの毅然とした態度に動揺を隠せなかった。
「もし、娘の手術が成功すれば、何か頼み事を聞いてもいいと考えているんだよ、何を望むかは見当ついているが・・・」彼の吐息に、声に、話し方に、人を不快させる何かがあった。
花を枯らしてしまうような、目に見えるものではなくてもそこにあるのは確かだった。その何かが砂時計のように段々と部屋に満ちていくのに我慢できなかった。ソファーに、カーテンに、棚の香水の瓶に、そしてカセットプレイヤーに触れるのが許せなかった。
一秒でも早くここから出ていって欲しかったが、それはできなかった。アフメドは白衣のポケットに手を突っ込んで一枚のメモを取り出し、マルコの前に置いた。
「このメモを読んでもらいたい。いつ、どこで読むかはあなたがよく理解しているはずです」手にとってメモを読んでもマルコの顔色は変わらなかった、そこに何一つ驚くべきものは書かれていなかったのだろうか?
「私がこれを読めば何が起きるのかは承知の上だろうね?」その声には感情がこもっていなかった。「承知の上です。あなたの言葉通り私には取り戻したいものがあります。そのメモを読むことが何かのきっかけになるかもしれない・・・」
「どうだろうか?メモを読んだとしても、うまくいくとは限らない。アフメド医師、今度はあなたが奪うことになるのでは?彼らも取り戻そうとするだろう、それでも構わないのかね?」マルコの言葉は正しかったし、アフメドも理解していた。それでも、もう一度あの景色を取り戻したかった。
「生まれた場所というのは最後に人間が帰る場所だと思うんです。この世に生まれて最初に触れたたくさんのものがそこにはありますから、記憶の一番深いところにあるんです・・・」アフメドが何を言ってもマルコの心が動く様子はなかった。アフメドの個人的な感情など、どうでもよかったのかもしれない。
「伝えておかないといけないな、これはそう簡単には読めるものじゃない。私を恨む人がただでさえ多いのに、さらに敵を作ることになる。それこそ、医者として、人として正しいことだと思うかね?」マルコの湿った吐息と、声がアフメドの顔に触れると、体が腐っていくような不快な感覚に陥った。
「分かってます、全て受け入れた上でそのメモを渡しました。読むか読まないかはあなた次第です。あなたにとって娘の命が大切なように私にとって同じくらい大切なものです」アフメドの言葉はマルコに届いていたのだろうか?石のように変わることのない顔からは何も分からなかった。
「大袈裟ではなく、戦争が起きたとしても受け入れることができるのか?医師として毎日、患者の命を救ういながら、片や、人の命が失われることに加担していると考えられなくもないが?」と言ってマルコはアフメドが渡したメモを机の上に捨てるように置いた。
もし、風が吹けばそのメモはどこかに飛んでいってしまっただろう。マルコは一呼吸置いてからゆっくりと言った。「憎しみの連鎖を断ち切ろうとは考えていないのかね?」まるで、アフメドを罪人したいかのような言葉だった。




