六桁の番号(5)
手術を終えると時間とは何なのか、いつも頭を通り過ぎる問いだった。一人の患者を救った場合、家族や友人と時間を過ごすことができる、もしくは行きたかったところに行くことができるか、読みかけの小説を最後まで読むことができるかもしれない。
何かをするためには、必ず「時間」が必要だった。反対に「死」は、人間から、もっと広く言うなら生物から時間を奪い取る現象で、逃れることのできない誰もがいつかは辿り着く終着点だった。
芸術家の死によって完成されることのなかった作品がたくさんあり、もし彼らにもう少し時間が与えられていたなら、どんな作品になっていたのだろうかと考えるのは無駄だろうか?作品の完成とは作者の手を持ってしか成し得ないのだろうか?
人生とは輝かしい時間だけで構成されているわけではなく、時として大きな痛みを与え、その先にまた幸福が待っている確証などない。しかし、生き続けない限り、幸福に触れることはできない。
自らの手で人生を、残された時間を放棄する者がいる。一人の患者はアフメッドに生と死の意味を深く考えさせた。年老いた男性の患者だった、右の手首には六桁の数字が刻まれていた。数字は薄くなり消えかけていたが、その記憶は決して薄れることなく彼の頭の中にあったのだろう。
診断の段階から、困難を強いられる手術になることは分かっていた。そのため、念入りに準備をし、あらゆる可能性を考えて何があっても対応できるよう他の医師の協力も得た。手術の手順も大きく変更しなかったが、悩んだ部分があった。手術時間も重要だった。
手術の当日、患者の体調に問題はなく、結果として手術も上手くいった。こんなことを言うのが正しいとは思わないが、完璧な手術だとアフメドは感じていた。困難な手術にも関わらず、その困難さを最小限にすることができ、この手術から準備の重要さを再確認するものだった。
術後の経過も良好で、感染症などの心配もなく、患者の妻も手術の成功を喜んでいた。アフメドの手を握りながら何度も感謝の言葉を述べた。他の医者たちも、この難しい手術をやり遂げたアフメドを讃えてくれて、苦労が報われたのを感じた瞬間でもあった。
退院も予定通りに進んで、微笑みながら二人は病院を後にした。それから、一年ほど経ったある日、アフメドに手紙が届いた。差出人の名前を見てすぐに、その患者の妻だと分かった。旅行先でのポストカードが添えられているだろうかと思いながら封筒を開けて手紙を読みはじめたが、想像していたような手紙ではなかった。
その患者は一週間前に亡くなったようだった。事故ではなく、自分自身の手でその生涯を閉じたと書かれていた。アフメドは何度もその手術の難しさを説明し、助からないかもしれないとはっきりとは言わなかったが、成功する確率が高くはないことを説明していたし、二人も理解していた。
手紙には謝罪の言葉も並べられていたが、何の意味もなかった。この結末と彼の死からアフメドは自分の両手を呪いたくなった。手紙の最後には墓地の住所が書かれていた。彼の心にある大きな傷を癒すことはできなかった。それは心臓の疾患よりもずっと大きかったのだろう。
本当の意味で患者を救えなかったと感じた。アフメドは忘れることなく彼の手首に刻まれていた六桁の数字を覚えていた。
カセットプレイヤーを止めて部屋を出た。いつもより少しに早く家に帰れると、カバンを手に取った時だった。アフメドを呼ぶ声が聞こえた。このタイミングを見計らったかのようだった。とにかく電話がきたらしく、電話の声を聞いた瞬間、すぐに誰なのか分かった。一度聞けば忘れることはない不快な声だった。




