水の中にあるもの(4)
サラの話すことに、それともサラの声に惹き込まれていたのだろうか?恐らくその両方だろう。サラがあの噴水に一人でいるのを見かけても声を掛けないで、遠い所から通り過ぎることもあった。一人で過ごす時間を大切にしているようだったし、声を掛けることで大切な時間を邪魔してしまうのではないかと恐れていた。噴水の中を真剣に覗き込んでいた。水に写る顔を見ていたのだろうか?
アトリエのブシュラの机の引き出しには、一つの香水のレシピがあった。あの噴水に落としてしまえば楽になったかもしれない、でもそうすることはできなかったし、心から望んでいることではなかった。
ブシュラの心にある喪失感は、これからも拭えないかもしれない、そうだとしても放って置くことが正しいとは思っていなかった。ウムトは香水の瓶の写真を手がかりにここに辿り着いたと話していた。ブシュラを驚かせただけではく、その写真を見た限り、アフメドが香水の瓶に触れたとは思えなかった。
ブシュラの抱える後悔が、その香水を作ることで解決することはなかったかもしれない、それでも作らずにはいられなかった。サラが話してくれたいくつかの香水のアイデアは、そんな香りがする香水を欲しかったことを意味していた。気づいていながら、忙しいことを理由に先延ばしにしてしまったことで、消えることのない罪悪感をブシュラの心に植え付けていた。
サラがその香りについて話すのは一度ではなかった。なぜその香水を作らなかったのか、自分に対して憤りすら感じていた。忙しかったのは事実だが、それよりも大切なことだったし、後悔と共にサラの声が心に残っていた。サラが亡くなったときに道路を埋めていた花々の香りはサラが何度も話していた理想とする香りだった。
調香師と言っても、香水を作ることだけが仕事ではなかった。洗剤や、化粧品など、日用品の香りを頼まれることもあった。自由に働いているように見えたかもしれないが、会社の方針、利益、売上に左右されることばかりだった。
記憶と香り、消えることのない繋がりの中で生きるブシュラが辛くないわけがなかった。今でもそのレシピを眺めるのには、もう一つの理由があった。突然、鳴り響く電話の音がブシュラを驚かせ、電話を手に取ると若い男性の声が聞こえてきた。
「こんにちは、シナンです。先ほどヌルから香水の試作品を受け取りました。急がせてしまってすみません。とても助かりました」
丁寧で聞き取りやすい声だった。その香水の名前がもし決まっているなら教えてほしいと言ったが、ブシュラは検討中だと伝えて、電話を切った。「祈りの庭」ヌルは香りの発案段階から関わっていたからこそ、この名前が頭に浮かんだのだろう。その香水を見事に表していた。




