水の中にあるもの(3)
アフメドはその噴水にいた女性の名前すら知らず、どうして話していたのか教えてくれなかった。その女性について話したくないのは明らかだったし、気難しそうにするアフメドに無理に話させるつもりはなかった。
アフメドが医学部に進学するために多くの時間を勉強に費やしていたのを知っていたからこそ、ブシュラも合格発表の日に家でじっとしていられなかった。朝一、学校で顔を合わせた時、ブシュラが口に出さなくても、アフメドはその表情でブシュラが試験の結果を知りたいことを察したし、顔を見なくたって、友達として気になるのは当然だった。
希望の大学の医学部に進学が決まったことをアフメドは教えてくれた。
高校を卒業してからもアフメドとの友達関係は続き、お互いの大学生活について話しながら過ごす時間は嫌いじゃなかった。そんなある日、紹介したい人がいると言われ、ブシュラはカフェでアフメドを待っていた。カフェの扉が開き、鈴の音が響いた。二人の男女が目に入り、それはアフメドと『あの女性』だった。噴水に座り、俯いていたから顔こそよく見えなかったが、その不思議な雰囲気を忘れることはなかった。
恋人だと紹介されてもブシュラはそれほど驚かなかった。あの日のアフメドの目から想像できないことではなかったし、運命と呼ぶのはいささか安直かもしれないが、そういう雰囲気があの日の噴水には流れていた。
ブシュラが名前を言って手を差し出すと、少し戸惑いながらもその差し出されたブシュラの手をサラは握った。少し冷たい、小さな手だった。
アフメドが転校してきた日にも、こうして手を差し出したのを思い出し、アフメドの手はサラの手とは反対に、温かくて大きかった。
不思議な魅力を持つサラにブシュラも惹かれていった。アフメドが学会や研修で忙しくなるにつれてサラと二人が会う時間は増えていき、会うたびに心を開いてくれたようで、ブシュラは嬉しかった。
それでも本当の意味でサラについて知ることができたとは思っていなかった。サラの魅力は香りや音楽のように、掴むことのできない、抽象的で儚いものだった。
調香師になってから魅力的な香水を作るために人々が何に関心を向けているのかを常に探していた。欲望や願いの中にある力や、胸に抱く理想を香りに閉じ込めることができればとブシュラは考え、サラはその答えのような女性だった。
「覚えていないかもしれないけど、噴水で話してたら、アフメドを呼びに来た女の子がいたでしょ?あれ、わたしなの。あの時なにを話していたの?」
「はっきりと覚えていないけど、噴水に落とした指輪について話してた気がする」
「大切な指輪だったの?」
「水は余りにも透明だから、二度と拾うことができなかったんだと思う」
「水が透明なら、すぐに拾えると思うけど、そうじゃないの?」
「本当の透明さを私たちは知らない。何も見えないし、何も写らない。だからこそ噴水に間違えて大切なものは落とさないように気をつけないといけないの」
サラがどこで聞いたのか、読んだのか分からなかったが、カフェの窓に向けられた視線は違う世界を見ているようだった。外を眺めているのだと思っていたが、そうではなくて、ガラスに写る自分自身に語りかけていたのかもしれない。もともと何の話をしていたのか覚えていなかった。いつもこんな風にして季節のように話題が移り変わり、イチョウの葉が道を黄色く染めていた。




