第5話:硝子の朝、平穏の終わり
吉沢図書館の朝は、常に古い紙の呼吸と、微かなアールグレイの香りで始まる。
吉沢里香は、カウンターの奥で一冊の古書の背表紙を丁寧に修復していた。
透明感のある、陶器のような白い肌と、知性を湛えた静かな横顔。
彼女にとって、この静寂こそが世界のすべてだった。
だが、その静寂は、隣の席で大あくびをする「異物」によって無惨に乱されていた。
「……ねえ、いつまで無視するわけ? 里香」
池田美波が、図書館の貴重なアンティーク椅子に深く腰掛け、不機嫌そうに声を上げた。
零れ落ちそうなほど大きな、美しい瞳。
昨夜の潜入捜査の疲れで少し充血しているが、その輝きは、静かな書庫の中で火花のように際立っている。
「美波、本を読まないのなら、せめて呼吸を静かにしていただけませんか。あなたの生命力が強すぎて、私の大切な蔵書が色褪せてしまいそうです」
里香は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、冷徹な、けれどどこか楽しげな毒を吐いた。
「昨夜、あなたが派手に暴れたせいで、九条のサーバーにはあなたの『特定情報』がノイズとして蓄積されています。……あなたはもう、普通の世界には戻れない」
「……上等よ。あんたという『毒』を飲んだ時から、覚悟はできてるわよ」
美波が不敵に笑った、その時だった。
バキィィィンッ!!
図書館の頑丈な鉄扉が、壊れるような音を立てて豪快にぶち破られた。
「先輩! 美波先輩! いるんでしょ! 助けてください!」
飛び込んできたのは、ネクタイを振り乱し、顔を真っ青にした青年――佐伯瞬だった。
美波を誰よりも慕う、警察時代の後輩刑事だ。
「佐伯!? あんた、なんでここが……」
「先輩、ヤバいっす、本気でヤバいっす……! 本庁が、先輩の逮捕状を取ろうとしてます! 九条の息がかかった上層部が、昨夜のクラブの件を『元警察官による強盗致傷』に書き換えたんです!」
佐伯がパニック状態で持ち込んだのは、警察内部でも最高機密とされる「九条拓馬の極秘プロジェクト」の断片データだった。
「九条は、街中の防犯カメラとマイナンバーを完全に紐づける『神の目』システムの実証実験を始めようとしてる。これが稼働したら、先輩は一歩も外を歩けなくなる」
里香の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
「……神の目、ですか。傲慢ですね。彼は、この街のすべての住人を自分の書庫の『蔵書』に書き換えようとしている」
その時。
パァンッ!! という乾いた衝撃音と共に、図書館のステンドグラス窓が激しく砕け散った。
「伏せて!」
美波が叫び、里香の細い身体をカウンターの裏へ押し倒す。
粉々になった硝子の雨が、美波の背中に容赦なく降り注いだ。
外には、フルフェイスのヘルメットを被った不気味な集団。九条が放った「掃除屋」だ。
彼らの手には、この静寂の聖域を焼き払うためのガソリン携行缶が握られていた。
「佐伯、里香を連れて裏から逃げて!」
美波は立ち上がり、壊れた椅子を武器として獰猛に構えた。
その硝子の瞳に、闘争の火がパチパチと灯る。
「……ハル! 出番よ!」
里香が床に伏せながら鋭く叫ぶ。
その瞬間、天井の濃い影の中から音もなく、運び屋の男・ハルが姿を現した。
彼は美波と一瞬だけ視線を交わすと、手に持った漆黒のナイフを抜き放ち、侵入者たちの懐へと弾丸のように飛び込んだ。
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